マンチェスター・ユナイテッドFC
赤い悪魔
1878年
オールド・トラッフォード・スタジアム
マルコム・グレーザー
サー・アレックス・ファーガソン
プレミアリーグ
歴史と出来事
目次 |
マンチェスター・ユナイテッドFC
マンチェスター・ユナイテッド・フットボールクラブは、イングランド北部、マンチェスター市郊外にあるオールド・トラッフォード・スタジアムを拠点とするイングランドのサッカークラブである。マンチェスター・ユナイテッドは1992年のリーグ創立時以来のメンバーで、1975年から現在に至るまでトップリーグに所属している。「赤い悪魔」の愛称で知られる。世界中に3億3000万人ともいわれるファンを有し、リーグ優勝16回、FAカップ11回、チャンピオンズリーグ優勝2回を誇る。イングランドのサッカークラブの中でも最も実力のある人気の高いチームの一つである。1986年より、サー・アレックス・ファーガソンが監督を務め、過去20年間でチームに18の優勝杯をもたらした。フォーブズ誌によれば、マンチェスター・ユナイテッドは世界で最も裕福なサッカークラブである(クラブの価値は15億ドルに相当するといわれる)。
クラブの歴史
1878年創設。当初の名称はニュートン・ヒース・ランカシャー&ヨークシャー・レイルウェイズFCで、これはニュートン・ヒースにあったランカシャー&ヨークシャー駅の鉄道員たちが、チーム創設の中心的役割を果たしたことに由来する。1892年、リーグ加入。この時点でチーム名をニュートン・ヒースFCに変更している。1902年、2500ポンド以上の負債を抱えてクラブは一度破産寸前まで追い込まれる。この危機を救ったのがマンチェスターの醸造業主だったジョン・ヘンリー・デイヴィスで、彼はその後クラブの代表を務めている。再興と同時にチーム名は現在のマンチェスター・ユナイテッドとなったが、変更前にはマンチェスター・セントラル、マンチェスター・セルティックといった名前が候補に挙がっていた。1902年4月26日、マンチェスター・ユナイテッドが誕生。チームカラーもそれまでの緑と金色から現在の赤と白に変更された。アーネスト・マングノールが監督として招集された年、マンチェスター・ユナイテッドは二部リーグ5位という結果を残す。翌シーズンにはチャーリー・ロバーツが加入(当時の移籍金としては最高額の750ポンド)し、マンチェスター・ユナイテッドは3位に浮上。ファーストディビジョン昇格にはわずか1ポイント及ばなかった。そして1906年についに昇格を果たし、最初のシーズンを8位で終了している。
1907年、マンチェスター・ユナイテッドは、当時マンチェスター・シティに所属していたサンディ・ターンブル、ビリー・メレディスら18名の選手と契約。彼らはチームに大きな影響を与え、1909年にはチーム初となるリーグ優勝を遂げる。翌シーズン、赤い悪魔はさらなる発展を遂げ、コミュニティシールドやFAカップでの初優勝を果たした。同年にチームは新スタジアム、オールド・トラッフォードに移り、1910年2月19日、リバプールを相手に初試合が行われ、3-0というスコアから見事逆転し、4-3で勝ち星を挙げている。1911年には2度目のリーグ優勝を果たしたが、その後41年間にわたってリーグ優勝からは遠ざかった。1922年、チームは二部リーグに降格し、その後の10年間は苦難の時代が続いた。1939年、第二次世界大戦開幕直前には再び一部に返り咲いている。 第二次世界大戦後、革新的な指導を行ったことで知られるマット・バズビーが監督に就任する。彼はユース出身の選手を積極的に起用。バズビーは、本来ならば役員らにその執行権があるスタメン選抜や新しい選手との契約、トレーニング・セッションの指示などをすべて一任されていた。1947年、1948年、1949年と3年間にわたってマンチェスター・ユナイテッドはリーグ戦を2位で終了。1948年にはスタン・ピアソン、ジャック・ローリー、チャーリー・ミッテン の「マジックトリオ」の活躍によりFAカップで優勝している。1956年には平均年齢22歳のレッド・デビルズが再びリーグ制覇を果たし、バズビーの若手起用が功を奏した形となった。翌シーズン、ダンカン・エドワーズをはじめとするバズビーの教え子たちは再びリーグ優勝を遂げてFAカップ決勝戦に駒を進めたが、惜しくもアストン・ヴィラに破れている。同シーズンにはイングランドのチームとして初のチャンピオンズカップ進出を果たし、準決勝戦でレアル・マドリードに負けを喫した。メイン・ロード・スタジアムでベルギーの覇者、RSCアンデルレヒトと戦った試合では、チーム最高記録の10-0という大差で勝利している。
1958年2月6日、チャンピオンズカップを終えて帰国の途につく選手たちを乗せた飛行機が、ミュンヘンで事故を起こす。この事故でゲオフ・ベント、ロジャー・バーン、エディー・コールマン、ダンカン・エドワーズ、マーク・ジョーンズ、デビッド・ペッグ、トミー・テイラー、リアム・ウェランの8名が死亡、15人が負傷した。このような悲劇を乗り越え、マンチェスター・ユナイテッドはFAカップ決勝戦に進出。惜しくもボルトン・ワンダラーズに破れたが、翌年もトップリーグ2位の座を死守した。
1960年代、バズビーはデニス・ローや、優れたボールコントロールで知られるジョージ・ベストといったスター選手と契約し、チームの再建を図る。1963年、リーグ成績は19位とふるわなかったもののFAカップで優勝。翌年にはリーグ2位まで浮上し、1965年と1967年には優勝杯を手にしている。1968年、4-1でベンフィカを打ち負かしチャンピオンズカップ初制覇を達成。デニス・ロー、ボビーチャールトン、ジョージベストの3選手はそれぞれ1964年、1966年、1968年にバロンドールを受賞している。1969年、マット・バズビーは監督の座を退き、元所属選手だったウィルフレッド・マクギネスが後を継いだ。
しかしマクギネス監督下でチームは低迷し、1970年のリーグ成績は8位。6カ月後には辞任を余儀なくされ、再びバズビーが監督として舞い戻る。1971年の夏にバズビーがクラブを去るまで、成績は好転した。後任にはフランク・オファレルが選出されたが、彼も18カ月弱しか続かなかった。しかしこの短い期間にマーティン・ブキャンなどの優秀な選手を獲得し、チームのフォーメーション強化に努めた。
1972年の終わりにトミー・ドハーティー(通称ドク)が新監督に就任。その年のシーズンは降格をまぬがれたものの、1974年にはクラブは再び二部に降格。さらにゴールデントリオといわれたベスト、ロー、チャールトンがクラブを離脱する。ローは1973年夏にマンチェスター・シティへ移籍し、二部に降格したマンチェスター・ユナイテッドからゴールを奪っている。1975年、クラブは再度一部に返り咲き、1976年にはFAカップ決勝戦に出場(優勝はサウサンプトン)。1977年にもFAカップ決勝戦に駒を進め、リバプールを2-1で破って優勝した。このような好成績を残し、ファンからの人気も高かったドハーティーだが、FAカップ決勝戦直後に監督を解任される。
1977年、デーブ・セクストンが監督の座を引き継ぎ、ディフェンス重視のフォーメーションを確立(そのため、サポーターからの人気は低かった)。この新フォーメーションは功を奏さず、マンチェスター・ユナイテッドはFAカップの決勝戦でもアーセナルに破れ、リーグでも2位に甘んじるなど優勝杯を手にすることができなかった。1981年にセクストンは解任され、ロン・アトキンソンが後任監督となった。
ロン・アトキンソンはまず、古巣のウエスト・ブロムに所属していたブライアン・ロビンソンを175万ポンドの移籍金でチームに呼び寄せる。ロビンソンは、ダンカン・エドワーズ以来最高のミッドフィールダーといわれる。レッド・デビルズは1983年と1985年のFAカップを制覇。1985/86シーズンではリーグにおいて最初の10戦を全勝で飾り、2位と10ポイント差をつける。しかしながら翌シーズンは4位とふるわず、降格ラインぎりぎりの成績となったことを受けてアトキンソンは監督を解任された。
1986年、アトキンソンの後任としてアバディーンの監督だったアレックス・ファーガソンに白羽の矢が立てられる。第一コーチとしての最初のシーズン、ユナイテッドは11位に終わったが、翌シーズンには2位に浮上。このシーズンでは、ブライアン・マクレアが、ジョージ・ベスト以来の快挙となる1シーズン20ゴール以上という成績を残している。しかしその後の2シーズン、チームは低迷し、ファーガソン監督も解任の危機に立たされる。幸運なことにその後チームは勢いを盛り返し、1990年のFAカップ(対クリスタルパレス)で優勝し、1991年にはスペインのチャンピオン、バルセロナを倒して、チーム唯一のカップウィナーズカップを獲得している。1992/93シーズンはマンチェスター・ユナイテッドが特に成功を収めたシーズンであった。エリック・カントナを迎えたチームは、ライアン・ギグスやポール・インスなどの活躍もあって1967年以来のリーグ優勝を果たす。翌年には、新しく加入したロイ・キーンらによってチームはリーグとFAカップのダブル優勝を果たした。1994年1月20日、サー・マット・バズビー死去。1994/95シーズン、ユナイテッドはリーグ、FAカップともに準優勝という結果を残した。
1995/96はレッド・デビルズにとって鍵となるシーズンだった。ファーガソン監督は、それまでの中心選手に代わり、デビッド・ベッカムやポール・スコールズ、ガリー・ネヴィルといったユースで活躍する選手たちを次々と起用。チームは驚異的な発展を遂げ、再びダブル優勝を果たす。イングランドのクラブとしては初の快挙に「ダブル・ダブル」というニックネームが付けられた。 1998/99はイングランド・サッカークラブの歴史上、最も特筆すべきシーズンである。マンチェスター・ユナイテッドは国内リーグ、FAカップ、チャンピオンズリーグで優勝し、後にも先にも例のない「三冠制覇」を果たす。リーグ戦では決勝戦でトッテナムホットスパーを2-1で破って優勝、FAカップ決勝では2-0(テディ・シェリンガムとポール・スコールズが得点)でニューキャッスル・ユナイテッドを打ち破り、チャンピオンズリーグ決勝ではバイエルン・ミュンヘンを劇的な逆転で下し、欧州覇者となった。さらに東京で行われたインターコンチネンタル・カップではSEパルメイラスに勝って優勝を収めている。2000年、ファーガソン監督はそれまでの功績が認められてナイトの称号を授与されている。チームは2000年、2001年にもリーグ優勝を遂げた。
2000年、ヨーロッパのサッカー界をリードするG -14(ヨーロッパビッグクラブ連合体)が創設され、マンチェスター・ユナイテッドは創設時のメンバーとして加入。2002年のプレミアリーグでは3位に甘んじたものの、2003年のシーズンでは8度目となるタイトルを奪取。ファーガソン監督はこのときの勝利を、1986年の監督就任以来最高の成功であったと振り返る。2003/04シーズン、2004/05シーズンの優勝杯はFAカップのみにとどまったが、チームは再建を図り、クリスティアーノ・ロナウド(移籍金1224万ポンド)やウェイン・ルーニー(2300万ポンド)、リオ・ファーディナンド(2910万ポンド)といった現在のチームになくてはならない選手たちを獲得していく。 2005年、ロイ・キーンがユナイテッドを離れてセルティックに加入し、クラブは過去10年以上にわたるキャリアの中でも初となるUEFAチャンピオンズリーグでのグループリーグ敗退を喫してしまう。国内リーグでは2位にとどまり、FAカップでリバプールに敗退。しかしながら、2006年には決勝戦でウィガン・アスレティックを4-0で破り、リーグカップ制覇を果たした。シーズンの終わりにはルート・ファン・ニステルローイがファーガソン監督の選手起用法に反発し、レアル・マドリードに移籍している。
2007年5月6日、ユナイテッドは4年ぶり、9度目(15シーズン中)のリーグ優勝を果たす。32試合におけるチームの総得点は、2位のチェルシーより20ゴールも多かった。しかしFAカップ決勝では1-0の僅差でチェルシーに破れている。チャンピオンズリーグでは準決勝に進出したが、このときの優勝チームとなったACミランに5-3で破れた。
ライバルチーム
マンチェスター・ユナイテッドのライバルチームは、リバプール、マンチェスター・シティ、リーズ・ユナイテッドの3クラブ。なかでも、これまでの獲得タイトルや比肩する実力などの点から、リバプールを最大のライバルととらえるファンが多い。
リバプールFC
互いにイングランド・サッカーを牽引するチームであるリバプールとのライバル関係は、1960年代に始まった。興味深いことに、この両者の対戦はファンが試合前にビールを飲んで酔っぱらわないよう、日中に行われることが多い。ライアン・ギグスも「イングランド・サッカーにおいて最も有名な一戦」と称している。これまでにリバプールは40の優勝杯を手にしており、一方のマンチェスター・ユナイテッドは32。両クラブともに「我こそがイングランド最高のクラブである」と主張している。
マンチェスター・シティFC
マンチェスター・シティとの関係は1890年代のニュートンヒース時代にまでさかのぼる。両チームの一戦は「マンチェスターダービー」と呼ばれている。マンチェスター・ユナイテッド・ファンは、マンチェスター・シティが主要な優勝杯から遠ざかって久しいとその実力の違いを掲げる一方、マンチェスター・シティ側は、同クラブこそ「真のマンチェスター市民のクラブ」だと主張している。両者の対決は149試合に上り、うちマンチェスター・ユナイテッドが59勝、マンチェスター・シティが41勝している。
リーズ・ユナイテッドFC
リーズ・ユナイテッドとのライバル争いは1960年代後半に始まり、1992年にリーズがリーグ優勝を果たし、マンチェスター・ユナイテッドが2位に甘んじたところで頂点に達する。両者の対戦は過去の薔薇戦争を引用して、「ローズ・ダービー」とも呼ばれている。さらにイングランド・サッカーにおいてフーリガンが台頭していた時代、両チームの試合では度々暴動が繰り広げられていたといわれる。現在でもこの一戦に対しては、最高レベルのセキュリティが敷かれている。
現所属メンバー
エトヴィン・ファン・デル・サールはオランダ人のゴールキーパーであり、オランダ代表のキャプテンも務めている。1990年にアヤックス・アムステルダムでキャリアをスタート。9年間の在籍中に226試合に出場、1992年のUEFAカップと1995年のUEFAチャンピオンズリーグで優勝している。1999年にユヴェントスに移籍し、2年間にわたる出場試合数はわずか66。その後ジャンルイジ・ブッフォンの加入により ポジション確保が危うくなり、2001年、約7700万ポンドの移籍金でフラムに移籍。2005年よりマンチェスター・ユナイテッドでプレーしており、監督のサー・アレックス・ファーガソンは、彼を「世界最高のゴールキーパーの一人」としている。強靭なゴールキーピングと機敏なプレーで、ここ数年クラブに数々の成功をもたらしている。代表としてのキャリアは1995年、対ベラルーシ戦でスタートし、以降すべての主要国際大会に出場している。2007年10月には、ユーロ2008後に代表から引退する意向であることを表明した。
クリスティアーノ・ロナウドは、ポルトガル出身のライト・ウィンガー/ストライカーである。マデイラ諸島フンシャル生まれ。スポルティング・リスボン入団前に、すでに地元代表チームで活躍していた。2003年のフレンドリーマッチ(スポルティング・リスボン対マンチェスター・ユナイテッド)後に、ファーガソン監督は当時18歳だったロナウドを獲得することを決定。移籍金は1224万ポンドだった。ロナウドは、レアル・マドリードに移籍したデビッド・ベッカムの後を継ぐ形でスタジアムに登場し、ジョージ・ベストやブライアン・ロブソン、エリック・カントナ、デビッド・ベッカムなどそうそうたるスター選手らによって受け継がれてきた背番号7番が与えられた。移籍当初こそ低迷していたものの、瞬く間にチームで最も重要な選手となる。昨シーズンにドイツで行われたイングランド対ポルトガル戦以降、ロナウドはレッド・デビルズ(赤い悪魔)ファン以外のイングランド・ファンからは嫌われる対象となってしまった一方で、同シーズンの最優秀選手に選ばれている。これまでに228試合に出場し、84得点をたたき出している。
ウェイン・ルーニーは、イングランド出身のストライカー。これまでに所属したすべてのチームにおいて重要な存在としてチームに貢献している。決してボールをあきらめないルーニーは、クリスティアーノ・ロナウドやカルロス・テベスと並び、マンチェスター・ユナイテッドの強力なオフェンシブ・ラインを構築するトップ・ストライカーの一人である。2002年、エヴァートンでプロとしてのキャリアをスタートさせ、2004年に2300万ポンドの移籍金でマンチェスター・ユナイテッドに加入。オールド・トラッフォード・スタジアムでのデビュー戦で、フェネルバフチェを相手にハットトリックを決め、ファンに衝撃をもたらした。ファーガソン監督は、ルーニーを「これまでに出会った最高の若手選手」と語っている。現在までに179試合に出場、72ゴールを決めている。
ガリー・ネヴィルは、イングランド出身のディフェンダー。1992年にプロデビューして以来、今もなおマンチェスター・ユナイテッドのスタメンに名を連ねている。2005年、ロイ・キーン退団を受けて新キャプテンとなる。勝利だけを信じて試合に臨むその姿が、多くのファンから支持されている。ネヴィルはこれまでにリーグ優勝7回、FAカップ優勝3回、UEFAチャンピオンズカップ優勝1回、リーグカップ優勝1回という華々しい成績を残している。レッド・デビルズの一員としてデビューして以来、これまでに540試合に出場し、7得点を決めている。彼の実の弟であるフィリップ・ネヴィルも、1993年から2005年までマンチェスター・ユナイテッドに所属していた。ガリー・ネヴィルは1995年、日本代表との間で行われたフレンドリーマッチで、イングランド代表としてもデビューを果たした。これまでのキャップ数は85にのぼる。
リオ・ファーディナンドは、イングランド出身のセンターバックである。1995年にウェストハム・ユナイテッドでプロとしてのキャリアをスタートさせる。その後1800万ポンドでリーズ・ユナイテッドに移籍、「世界で最も高価なディフェンダー」となる。2002年7月22日、2910万ポンドの移籍金でマンチェスター・ユナイテッドと契約を交わす。試合を読む才能に長けた、世界最高のディフェンダーの一人である。2003年9月、ドーピング検査拒否により8カ月間の試合出場停止処分を受けた。255試合出場、7得点という個人記録を持っている。1997年10月15日、フレンドリーマッチの対カメルーン戦で、当時としては史上最年少(19 歳と8日)での代表デビューを果たした。2008年3月のフランスを相手に迎えたフレンドリーマッチでは代表キャプテンを務めた。
監督サー・アレックス・ファーガソンは、スコットランド出身の元プレーヤー。1986年からマンチェスター・ユナイテッドの監督を務めている。マンチェスター・ユナイテッドの歴史において、サー・マット・バズビーに次いで2番目に息の長い監督であり、クラブ史上最も多くのタイトルを手にした監督でもある。彼はこれまでにリーグ優勝9回、FAカップ優勝5回、リーグカップ優勝2回、UEFAチャンピオンズリーグ優勝1回、UEFAスーパーカップ優勝1回、UEFAカップウィナーズカップ優勝1回、インターコンチネンタル・カップ優勝1回を経験。1999年にはプレミアリーグとFAカップ、UEFAチャンピオンズリーグにおける三冠制覇を果たしている。
クラブの伝説的プレーヤー
サー・ボビー・チャールトンは、イングランド・サッカー史上最高のストライカーの一人。サッカー人生のほぼすべてをマンチェスター・ユナイテッドで過ごしたチャールトンは、優れた攻撃力と強烈なロングシュートで知られる。1953年にマンチェスター・ユナイテッドでプロデビューを果たした。「ミュンヘンの悲劇」と呼ばれる飛行機事故に遭うも一命を取り留め、その後のすべての試合を事故で失った多くの仲間たちに捧げたといわれている。「バズビー・ベイブス」の一人として754試合に出場し、247得点を獲得。これらは今なお、クラブ史上トップの出場・得点記録となっている。1966年、バロンドール受賞。同年にはイングランド代表としてワールドカップで優勝している。ジョージ・ベスト、デニス・ローとの3人組で一時代を築き、1973年に引退。1984年6月以降、マンチェスター・ユナイテッドの役員を務めている。
ジョージ・ベスト は、北アイルランド出身のウィンガーとして活躍。1963 年、17歳のときにマンチェスター・ユナイテッドでプロデビュー。彼を見いだし、当時のマット・バズビー監督に推薦したのがクラブのスカウトマン、ボブ・ビショプであった。1968年のUEFAチャンピオンズカップ初優勝の際は、ボビー・チャールトン、デニス・ローとともに優勝に貢献。その長髪や整った容姿、華やかなライフスタイルなどから「5番目のビートルズ」というあだ名が付けられた。1968年にはバロンドールを受賞し、2度のリーグタイトルに輝き、さらにUEFAチャンピオンズカップでも優勝を果たしている。1974年に470試合出場、179ゴールという記録を打ち立ててマンチェスター・ユナイテッドを退団。その後オーストラリアやスコットランド、アメリカなどのチームに所属。代表としてのデビューは1964年で、代表通算37試合に出場、9得点。2005年12月3日、59歳という若さでこの世を去る。ベルファストで行われた彼の葬儀には10万人のファンが詰めかけた。
デニス・ローは、スコットランド出身の元ストライカー。1956年、ハダースフィールド・タウンの二部でプロとしてのキャリアをスタートさせる。1960年には55000ポンドの移籍金(当時のイングランドにおける移籍金最高額)でマンチェスター・シティと契約したものの、1年後には110000ポンドの移籍金でイタリアのクラブ、トリノに移籍する。チームになじめず、1年後には退団。1962年、115000ポンドでマンチェスター・ユナイテッドと契約を交わし、イングランドでの移籍金最高額を更新する。11年間の在籍中、リーグ優勝2回、FAカップ優勝1回、そして1968年のUEFAチャンピオンズカップ優勝を経験。通算成績は237得点、404試合出場となっている。1964年、バロンドール受賞。ファンからは「金髪の悪魔」と呼ばれた。1958年にはスコットランド代表としてもデビュー。代表通算55試合に出場、30得点という記録を残している。
ロイ・キーンは、アイルランド出身の元ミッドフィールダー。1990年、ノッティンガム・フォレストでプロデビュー。1993年に375万ポンドの移籍金(当時のイングランドにおける移籍金最高額)でマンチェスター・ユナイテッドと契約。最初のシーズンでクラブ初の快挙となったリーグ、FAカップのダブル優勝を達成。1995年、デビッド・ベッカムやニッキー・バット、ポール・スコールズなどの若手選手が加入し、キーンはミッドフィールダーとして最も経験のある選手となる。同年にキーンは二度目のダブル優勝を経験。1997/98シーズンよりエリック・カントナに代わってキャプテンを務めたが、腿の靭帯負傷により欠場が続いた。1998/99シーズンに復帰し、三冠制覇に大きく貢献。2000年には、PFA年間最優秀選手賞ならびにFWA年間最優秀選手賞を受賞している。2005年11月18日、480試合出場、51得点という記録を残してマンチェスター・ユナイテッドを退団、セルティックに移籍した。6カ月にわたって、同チームのリーグ優勝とスコットランド・リーグカップ優勝に貢献したのち、現役引退を表明した。
最多出場選手
| ランク | プレーヤー | # 出場 |
|---|---|---|
| 1 | サー・ボビー・チャールトン | 759 |
| 2 | ライアン・ギグス | 749 |
| 3 | ビル・フォルケス | 688 |
| 4 | ポール・スコールズ | 561 |
| 5 | ガリー・ネヴィル | 540 |
| 6 | アレックス・ステップニー | 539 |
| 7 | トニー・ダン | 535 |
| 8 | デニス・アーウィン | 529 |
| 9 | ジョー・スペンス | 510 |
| 10 | アーサー・アルビストン | 485 |
最多得点選手
| ランク | プレーヤー | # 試合 | # ゴール | 初試合 | 最終試合 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1 | サー・ボビー・チャールトン | 759 | 249 | 1956 | 1973 |
| 2 | デニス・ロー | 404 | 237 | 1962 | 1973 |
| 3 | ジャック・ローリー | 424 | 211 | 1937 | 1955 |
| 4 | デニス・バイオレット | 293 | 179 | 1953 | 1962 |
| 5 | ジョージ・ベスト | 470 | 179 | 1963 | 1974 |
| 6 | ジョー・スペンス | 510 | 168 | 1919 | 1933 |
| 7 | マーク・ヒューズ | 467 | 163 | 1983 | 1995 |
| 8 | ルート・ファン・ニステルローイ | 219 | 150 | 2001 | 2006 |
| 9 | スタン・ピアソン | 343 | 148 | 1937 | 1954 |
| 10 | デビット・ハード | 265 | 145 | 1961 | 1968 |
プレーヤーの表彰と賞
- デニス・ロー – バロンドール - 1964
- サー・ボビー・チャールトン:
- バロンドール: 1966
- FWA年間最優秀選手賞: 1966
- ジョージ・ベスト:
- バロンドール: 1968
- FWA年間最優秀選手賞: 1968
- エリック・カントナ
- PFA年間最優秀選手賞: 1995
- FWA年間最優秀選手賞: 1996
- ロイ・キーン:
- FWA年間最優秀選手賞: 2000
- PFA年間最優秀選手賞: 2000
- クリスティアーノ・ロナウド
- FWA年間最優秀選手賞: 2007
- PFA年間最優秀選手賞: 2007
チームタイトル
- リーグ優勝 (16回)
- 1907–08、 1910–11、 1951–52、 1955–56、 1956–57、 1964–65、 1966–67、 1992–93、 1993–94、 1995–96、 1996–97、 1998–99、 1999–2000、 2000–01、 2002–03、 2006–07
- FAカップ優勝 (11回)
- 1909、 1948、 1963、 1977、 1983、 1985、 1990、 1994、 1996、 1999、 2004
- リーグカップ優勝 (2回)
- 1992、 2006
- コミュニティーシールド (16回)
- 1908、 1911、 1952、 1956、 1957、 1965*、 1967*、 1977*、 1983、 1990*、 1993、 1994、 1996、 1997、 2003、 2007 (* joint holders)
- UEFAチャンピオンズリーグ優勝(2回)
- 1968、 1999
- UEFAカップウィナーズカップ優勝
- 1991
- UEFAスーパーカップ優勝
- 1991
- インターコンチネンタル・カップ優勝
- 1999
リーグ
1998/99シーズンはマンチェスター・ユナイテッドにとって最も大きな成功を収めた年であった。イングランドのチームとしては初の快挙となるプレミアリーグとFAカップ、UEFAチャンピオンズリーグにおける三冠制覇を果たしている。さらに、マンチェスター・ユナイテッドは1998年12月から1999年5月までの間、33試合の連続無敗記録を樹立。リーグ決勝戦最終日に2-1でトッテナム・ホットスパーを破り、FAカップ決勝戦ではテディ・シェリンガムとポール・スコールズがゴールを決め、2-0でニューキャッスル・ユナイテッドを倒して優勝。UEFAチャンピオンズリーグ決勝戦では、負傷選手が相次ぐ中、バイエルン・ミュンヘンを2-1で破って欧州覇者となり(カンプ・ノウの奇跡)、東京で行われたインターコンチネンタル・カップではSEパルメイラスに勝利した。
組織
2005年5月12日、 アメリカ人大富豪のマルコム・グレーザーが8億ポンドを支払ってクラブの支配権を握ることに成功。5月16日には株保有率を上場廃止可能な75%にまで増やした。6月8日には、実の息子たちをクラブの役員として任命した。
- 会長: マルコム・グレーザー
- 代表者: ジョエル&アヴラム・グレーザー
- 監督: サー・アレックス・ファーガソン
ユニフォーム
1878年から1902年まで、ユニフォームシャツは緑とゴールドの2色使いだったが、1902年にクラブ名がマンチェスター・ユナイテッドに変更されたのと同時にユニフォームも変更され、赤と白が新しいチームカラーとして選ばれた。
スタジアム
1878から1893までは、現在のマンチェスター・ピカデリー駅そばのノースロード沿いにあった小さなグランドが使用されていた。 1893年のリーグ加入後、クレイトン近くのバンク・ストリートに拠点を移す。1909年4月、現在のオールド・トラッフォード・スタジアムの土地を60000ポンドで購入。当時の代表であったジョンヘンリデイビスに雇われたアーチポルド・リーチの設計により、予算30000ポンドをかけて建設が開始される。1910年に開場し、同年2月19日には宿敵リバプールFCを相手に試合が行われ、4-3で勝利。第二次世界大戦によってスタジアムの大部分が焼失したが、1949年に再建されている。現在の収容人数は76212人である。
スポンサー
AIG (公式メインスポンサー)、 ナイキ (公式ユニフォーム・パートナー)、 アウディ(公式自動車サプライヤー)、バドワイザー、ベットフレッド(公式オンラインカジノ)、Xfmマンチェスター (公式ラジオ局)
外部リンク
- クラブ公式サイト: http://www.manutd.jp/
- リーグ公式サイト: http://www.premierleague.com/
- チケット公式サイト: http://www.manutd.com/default.sps?pagegid={833A50E3-D881-494E-911F-28054F2734B9}
- スタジアム公式サイト: http://www.manutd.com/default.sps?pagegid=%7B3D311A73-611A-43C9-9852-82DF97917873%7D§ion=oldTrafford


