ユベントスFC
ビアンコネッリ(白と黒)、シニョーラ(老貴婦人)
1897年
スタディオ・オリンピコ・ディ・トリノ、スタディオ・デッレ・アルピ
ジョヴァンニ・コボッリ・ジッリ
クラウディオ・ラニエリ
セリエA
Facts & History
目次 |
ユベントスFC
ユベントスFCは、イタリア北西部のトリノを本拠地とするサッカークラグであり、世界的にも非常に重要なクラブの一つである。1897年に創設されたユベントスは、イタリア国内に現存するクラブの中ではジェノア、プロ・パトリアに次いで3番目に歴史の古いクラブである。ビアンコネッリの愛称で知られるユベントスは、100シーズン中実に27シーズンでセリエA制覇を果たしている。
クラブの歴史
ユベントスはラテン語で「青春」を意味する言葉。その名の由来は1897年11月1日、トリノの有名学校、マッシモ・ダゼーリオ高等学校の生徒らによってクラブが創設されたことにある。ユニフォームカラーはピンクと黒で、黒のタイを着用していた。ユベントスFCは1900年に初のイタリア選手権参加を果たす。白と黒のユニフォームに変わってから2年後の1905年、決勝ラウンドでジェノアやUSミラネーゼを破り、イタリア選手権で初優勝。その1年後にはACミランと同点1位対決を行って引き分け、再度ミラノ市内のスタジアムでプレーオフが予定されていたが、ユベントスはこれを辞退し、優勝を逃した。またこの年、スイス人のアルフレド・ディック会長がクラブを去り、同氏は新たにFCトリノを創設。ディック会長がクラブ名をJugen Fussvereinに変更し、本拠地を国外へ移したいと希望したことから内紛が起こり、このような結末を迎えた。1910年代におけるユベントスのリーグ最高位は2位。1913年には最下位となったが降格は免れ、ロンバルディ・グループに置かれた。1910年代は唯一、ユベントスがいずれのタイトルも獲得できなかった10年間である。
第一次世界大戦後、ユベントスを取り巻く状況が好転する。1923年にはエドアルド・アネェッリがクラブを買収。1926年には2度目のイタリア選手権優勝を果たし、その後1年間はユニフォームの胸にイタリア国旗のトリコローレを示した盾型のエンブレムを縫い付けて戦うこととなった。ゴールキーパーのジャンピエロ・コンビ、ディフェンダーのビルジニオロ・ゼッタやフェデリコ・ムネラッティを中心としたユベントスは現在に至る歴史の中でも1、2を誇る最強メンバーを取り揃え、1926年には3つのタイトルを手にした。1930/31シーズンからアネェッリ会長が飛行機事故で亡くなった1934/35シーズンまでの間には、5つのタイトルを獲得。イタリア系アルゼンチン人選手のライムンド・オルシやルイス・モンティ、レナート・セサリーニ、そしてストライカーのフェリチェ・ボレルやフェラーリなどがこれら5つのタイトル奪取に貢献した。またこの間にユベントスは新スタジアム「スタディオ・ムッソリーニ」に移転している。
優勝サイクルに入ったユベントスは1938年のスクデット獲得に近づくが、ホームで行われた最終戦で敗北し、準優勝に終わる。優勝したのはトリノで、戦後間もなくのリーグ戦から始まり、トリノに決勝戦で敗れたのはこれが3度目だった。ユベントスは1938年と1942年にコッパ・イタリアを制覇。1947年にはエドアルド・アネェッリの息子であるジャンニが25歳の若さで会長に就任している。「グランデ・トリノ(偉大なトリノ)」と呼ばれたトリノの快進撃は「スペルガの悲劇」として知られる飛行機墜落事故によって終止符を打たれ、ユベントスは1950年、ようやくセリエA優勝を果たす。またこの間にスタジアム名が「スタディオ・コムナーレ」に変更されている。
1948年からイタリアで外国人選手の登用が再び可能となり、デンマーク人のジョンハンセンなどが活躍。しかし、クラブにとって最も重要な選手となったのが、ユベントスに生涯を捧げたジャンピエロ・ボナペルティである。1952年、ユベントスは9つ目となるタイトルを獲得し、1年後にはジャンニ・アネェッリが会長の職を追われた(しかし現在でもユベントスのオーナーはアネェッリ一族である)。1956年には彼の弟である弱冠22歳のウンベルトが会長に就任。1958年にユベントスは10個目のスクデットを獲得し、「ラ・ステッラ」と呼ばれる金色の星の刺繍がユニフォームにつけられた(ユベントス以外に「ラ・ステッラ」を獲得しているのはACミランとインテルのみ)。さらに1960、61年には連続優勝を遂げる。この頃ジャンピエロ・ボニペルティが現役を引退。最も優れた選手といわれたオマール・シボリや、名ストライカーのジョン・チャールズを筆頭とした当時のユベントスは、イタリアのサッカーシーンを支配する圧倒的な強さを持っていた。1960年、ユベントスはセリエAとコッパ・イタリアでのダブル優勝を遂げた。
インテルの快進撃が終わりを告げたのと同時に、ユベントスは優勝路線をひた走ることとなる。1967年のリーグ戦ではインテルがマントヴァを相手に迎えた最終試合で、ゴールキーパーのサルティによるミスで勝利を逃し、ユベントスが予想外の優勝を手にすることとなる。70・80年代にはユベントスの歴史の中で2度目となる黄金期を迎え、1971年から1986年の間に9つのスクデットを獲得。また、1977年には初の国際タイトルとなるUEFAカップ優勝を果たす。アスレティックビルバオとの決勝戦ではホームでは1-0、アウェーでは1-2で勝利し、アウェーゴールのルールにより見事優勝した。それ以前の1977年5月20日にベオグラードで行われたUEFAチャンピオンズカップ決勝戦ではアヤックスに破れ、同年のインターコンチネンタル・カップではインデペンディエンテに1-0で敗北している。
この当時、クラブはゴールキーパーのディノゾフをはじめ、ディフェンダーのジェンティールやカブリーニ、シレア、ミッドフィールダーのタルデッリやカウシオ、リアム・ブラディ、そしてベッテガやパオロ・ロッシ、プラティニといったストライカーなど数多くの花形選手に恵まれた。1982年のワールドカップではこれらの選手が大活躍した。ユベントスは1984年のUEFAカップウィナーズカップでポルトを破って優勝(ポーランドのストライカー、ボニエクのゴールが試合を決めた)し、1985年のUEFAスーパーカップでもリバプールを打ち負かして優勝。さらに同年、チームは欧州覇者を目指し、ブリュッセルのヘイゼル・スタジアムで行われたUEFAチャンピオンズカップに出場。チームは見事優勝を果たしたが、1985年5月25日にはサポーターによる乱闘事件で39名が死亡するという痛ましい惨事が起こった(死者の多くはユベントスサポーター)。また東京で開催されたインターコンチネンタル・カップでもアルヘンティノス・ジュニアーズを倒し優勝杯を手にした。最後のスクデット獲得となったのは1986年で、ASローマが最後の2試合を落としたことで優勝が決まった。
1990年、ユベントスFCは拠点をデル・アルピ・スタジアムに移し、タイトルから遠ざかった9年間を経て(この間の獲得タイトルはコッパ・イタリア1回とUEFAカップ1回のみ)、ユベントスは22個目のセリエAタイトルを獲得。この頃、ユベントスは向かうところ敵なしで、イタリア国内のほぼすべてのタイトルを獲得し、1996年にはアヤックスを倒して2回目のUEFAチャンピオンズリーグ制覇を果たした。また同年にはインターコンチネンタル・カップでリバープレートを1-0で破り優勝。しかし1997年と1998年のUEFAチャンピオンズリーグでは、それぞれドルトムンドとレアル・マドリードに決勝戦で敗れていえる。
ヴィエリ、ラバネッリから始まり、デル・ピエロ、ジダン、ダービッツとこの時代にはユベントスの歴史に名を残す名プレーヤーが続々登場した。しかし1998年、ASローマの監督だったゼーマンがユベントスの一部の選手がEPOや他の薬物によるドーピングを行っていると発言。当時のメディカルスタッフやCEOはこの疑惑を否定したが、この事件がユベントスの優勝サイクルに深い影を落としたことは否めない。1999年には監督を務めていたリッピがユベントスを離れたが、クラブはタイトル奪取のため再び彼を呼び戻すこととなる。ジダンがレアル・マドリードへ移籍し、ジャンルイジ・ブッフォンとリリアン・テュラムがユベントスに加入。2002年、2003年と続けてスクデットを手にした後、マンチェスターで行われたUEFAチャンピオンズリーグ決勝戦ではACミランを相手に惜しくもPK戦で破れている。リッピがユベントスを離れてイタリア代表監督に就任したのを受け、フロントはファビオ・カペッロを監督として招き入れることを決定。若きスーパープレーヤ、ズラタン・イブラヒモビッチがアヤックスから移籍し、ASローマに所属していたミッドフィールダーのエメルソンが加入した。ユベントスは28、29個目のスクデットを獲得したが、この後にカルチョスキャンダルが発覚。ルチアーノ・モッジGMらが審判に対する買収、脅迫行為で起訴された。ユベントスはセリエBに降格、最後の2つのスクデット剥奪という処分を受ける。2005/06シーズンはインテルがセリエA優勝を遂げ、ユベントスからは多くの選手が離脱していった。クラブは組織を刷新し、新監督には元ユベントスのミッドフィールダー、ディディエ・デシャンが就任。ブッフォンやデル・ピエロ、ネドベド、カモラネージ、トレゼゲといった中心選手はヨーロッパ中の様々なクラブからオファーがあったにもかかわらず、ユベントスにとどまることを決めた。2006/07シーズン、ユベントスは勝ち点マイナス9からスタートというペナルティを与えられたもののセリエBで優勝し、セリエAに復帰した。
ライバルチーム
イタリア国内で最も多くのファンを有するユベントスには、セリエAの中に数多くのライバルチームが存在する。
最初に挙げられるのがトリノである。トリノは1970年代、特に1976/77シーズンに圧倒的な強さをみせ、ユベントスが60ポイント中51ポイントを獲得してスクデットを取ったとき、トリノは50ポイントで準優勝を果たしている。両者のライバル関係はしばしば暴動に発展することがあり、最近の例としては2007年9月30日に2チームの対戦が行われた際、たくさんの車が破壊されるといった被害が発生し、30人のサポーターが警察に逮捕されている。
歴史の古いライバルチームとしてはインテルミランが挙げられる。2006年までこの2チームは一度もセリエAから降格したことがない唯一のチームとして、お互いを常にライバル視してきた。両者の対決は「イタリア・ダービー」と呼ばれている。カルチョスキャンダルでユベントスがセリエBに降格した後は、ユベントスサポーターがこのスキャンダルの裏にインテルの存在があったと非難したことで両者のライバル意識はますますエスカレートした。スキャンダルの主犯格とされたルチアノ・モッジ(元ユベントスGM)は盗聴によってその不正が発覚したが、当時電話会社、テレコムのオーナーだったのがインテルの副会長であるマルコ・トロンチェッティ・プロベラだったのである。インテルは2006年にセリエA優勝を遂げている。しかし両者のライバル関係が重大な事件を引き起こしたという事実はない。
1980年代にはASローマとフィオレンティーナの間で新たなライバル関係ができる。これは両クラブのサポーターが、ユベントスに有利な判定を下した審判のせいでセリエA優勝を逃したと主張したからである。
国外のライバルチームといえばリバプールが挙げられ、1985年にはヘイゼル・スタジアムで歴史に残る悲劇が発生した。
意外なことに、ACミランとの間にはライバル関係はない。その理由は過去に両クラブが商業上の契約を結んだということだけにとどまらない。イタリア2強クラブがライバル意識を持たない理由は、10年以上にわたっていずれかのクラブがリーグ優勝を果たしてきたという事実を踏まえ、両者のサポーターが互いの存在を認め合っているからだといえる。
現所属メンバー
ジャンルイジ・ブッフォン - 1
ジジことジャンルイジ・ブッフォンを「世界最高のゴールキーパー」と称する人は多い。30歳を迎えた彼は、すでにプロゴールキーパーとして12年の経歴を持つ。ユース時代を含むパルマでの10年間の後、2001年にユベントスと契約。セリエAでの2度の優勝経験がある。スポーツ一家に生まれ、実の姉妹はバレーボール選手として活躍している。
パベル・ネドベド - 11
チェコ出身のミッドフィールダー。35歳。現役引退が近いとささやく声もあるが、その実力は未だトップレベルで、非常にプロ意識の高いアスリートである。2003年バロンドール受賞。しかし、そのシーズンのチャンピオンズリーグでは、イエローカード累積により決勝戦に出場することができなかった。
アレッサンドロ・デル・ピエロ - 10
アレッサンドロ・デル・ピエロもまた、ユベントスを代表するスーパースターである。彼はチームで最も才能のある選手であり、サポーターからは「アレックス」の愛称で親しまれている。カルチョ・バドヴァのユースチームでキャリアをスタートさせたものの、彼のサッカー人生は過去13〜14年間のユベントスの歴史そのものだともいえる。
ダヴィド・トレゼゲ - 17
アルゼンチン国籍も併せ持つフランス人ストライカー。フランス代表として1998年のワールドカップ、2000年の欧州選手権での優勝に貢献した世界屈指のプレーヤーである。
クラブの伝説的プレーヤー
ジャンピエロ・コンビ (1922-1934): クラブ黄金期に活躍した伝説のゴールキーパー。5つのタイトルを獲得し、ワールドカップでの優勝経験もある。
ビルジニオ・ロゼッタ (1925-1936): ディフェンスの要。5万リラが支払われたというUSプロ・ヴェルチェッリ・カルチョからの移籍は当時スキャンダルとなった。8タイトルを獲得し、1934年のワールドカップで優勝している。
ウンベルト・カリガリス (1928-1935): コンビ、ロゼッタとともにユベントス、イタリア代表の重要なディフェンス勢の一人。獲得タイトルは5つ。オールドスターマッチの試合中に39歳の若さで亡くなった。
ライムンド・オルシ (1929-1935): 1928年のオリンピックでその才能が注目されるも、書類上の問題によりその後1年間はプレーすることができなかった。
レナート・セサリーニ (1930-1935): 試合終了直前に決めるゴール(通称「ゾナ・セサリーニ」)で知られる、往年の名プレーヤー。アルゼンチンのChacharitaで育った。 ジョヴァンニ・フェラーリ (1930-1935): 8つのタイトル獲得という華々しい経歴を持つ。規律正しいストライカーであり、1934年と1938年のワールドカップに出場し、優勝した。 カルロ・パローラ (1939-1954):トリノ生まれ。ディフェンス能力に長けたミッドフィールダー。現役最後の年をSSラツィオで過ごすまではプロキャリアのすべてをユベントスに捧げた。1970年代にはユベントスの監督に就任した。
ジャンピエロ・ボニペルティ (1946-1961): ストライカーとして、プレイメーカーとしてユベントスにプロキャリアのすべてを捧げた一流選手。しかしイタリア代表メンバーとしてはタイトルに恵まれなかった。
ジョン・ハンセン (1948-1954): 第二次世界大戦後まもなくに加入した外国人選手の一人。広告キャンペーンに登場した最初のサッカープレーヤーの一人でもある。 オマール・シボリ (1957-1965): 一流のストライカー。頭が大きかったことから「カベゾン(デカ頭)」と呼ばれた。激しい気性の持ち主でしばしば審判にたてついた。3度のセリエA制覇を経験している。
ジョン・ウィリアム・チャールズ (1957-1962): 非常に優れた攻撃能力を有するシボリの相棒。サッカー人生において一度も警告を受けなかったことから「優しき巨人」というあだ名がつけられた。
ロベルト・ベッテガ (1970-1983): 優れた技術力と頭脳を持ち合わせた1970年代のユベントスを代表する選手。怪我のためワールドカップに出場出来なかったことを除いては、常にチームの中心的役割を果たした。
ディノ・ゾフ (1972-1983): イタリアを代表するゴールキーパー。30歳でユベントスに加入。11年間在籍し、40歳でワールドカップ優勝を果たした。
クラウディオ・ジェンティーレ (1973-1984): 1970-80年代に活躍した選手の中で最も背の高かった選手の一人。1982年のワールドカップでマラドーナやジーコを徹底的にマークしたことで有名になった。
ガエターノ・シレア (1974-1988): イタリア史上屈指の「リベロ」は、ミッドフィールダーとしてキャリアをスタートさせたものの、カルロ・パローラ監督は彼をセンターバックとして使うことを決める。ピッチの内外を問わず紳士的な性格で知られたが、ユベントスの助監督としてUEFAカップで対戦するチームの視察のために訪れたポーランドで交通事故に遭い、36歳の若さで他界した。
マルコ・タルデッリ (1975-1985): ディフェンス、オフェンスともに長け、当時最も現代的なサッカーをするミッドフィールダーといわれた。1982年のワールドカップ決勝戦ではイタリア代表2点目を決めた選手である。
アントニオ・カブリーニ (1976-1989): 左足を利き足とするディフェンダー。ユベントス在籍中に数多くのタイトルを手にした。
パオロ・ロッシ (1981-1985): 若いときに3度の膝の手術を受けるなど、怪我に悩まされた。ペルージャ在籍中には八百長疑惑がかかり、2年間の出場停止処分を受けている。その後ユベントスに移籍し、1982年のワールドカップでは優勝を果たして自らも得点王となり、同年にバロンドールも受賞している。
ミシェル・プラティニ (1982-1987): プラティニの加入とともに、ユベントスの黄金期が幕を開ける(インテルも彼の獲得に乗り出していたが、アニェッリの方が一足早かった)。背番号10番(アニェッリは当時「9.5」と称した)を背負う素晴らしい才能を持った選手。現役引退はフランス代表監督を務め、現在はUEFAの会長に就任している。
ズビグニェフ・ボニエク (1982-1985): 国内リーグよりもUEFA主催の大会で目覚ましい活躍を遂げたことから、「ベッロ・ディ・ノッテ(美しい夜)」の愛称がつけられた。1985年にASローマに移籍。
ロベルト・バッジョ (1990-1995): 「コディーノ」の愛称で知られる、1990年代を代表するスーパープレーヤー。1993年、バロンドール受賞。パオロ・ロッシ同様、ヴィチェンツァ所属中はひどい怪我に悩まされた。偉大な選手であると同時に、その控えめな人柄で知られる。
ジネディーヌ・ジダン (1996-2001): ボルドーでプレーしていたときにユベントスFCのスカウトマンにその才能を見いだされ、24歳のときにユベントスと契約。ユベントス在籍中は5シーズンにわたって素晴らしい活躍をみせ、ワールドカップと欧州選手権で優勝を達成。2001年にレアルマドリードに移り、5年間在籍。2度目となるワールドカップ決勝戦でマルコ・マテラッティに頭突きをくらわせて一発退場となり、その後現役を引退した。
ジャンルカ・ザンブロッタ (1999-2006): ライトバック、レフトバックのいずれでもプレーできる選手。優れたディフェンダーだが、攻撃能力にも長けている。カルチョスキャンダルの後、FCバルセロナに移籍した。
フィリッポ・インザーギ (1997- 2001): 目を見張るような技術力はないものの、絶妙なタイミングとポジショニングセンスでゴールを決める天賦の才能を持った選手である。常にオフサイドぎりぎりのポジションを狙い、オフサイドを抜け出してこぼれ球を押し込む。トレゼゲ加入の後はアンチェロッティが監督を務めるACミランに移籍した。
ファビオ・カンナヴァーロ (2004-2006): ワールドカップ優勝、バロンドール受賞、2006年年間最優秀選手賞受賞(ディフェンダーでは初の受賞)という快挙を遂げた彼には「ベルリンの壁」というあだ名がつけられた。身長はそれほど高くないが、その俊敏さと強靭さで相手プレイヤーからボールを奪う能力に優れている。
ズラタン・イブラヒモビッチ (2004-2006): イブラ、イル・ジェニオ(天才)の愛称で親しまれるイブラヒモビッチは、ポストプレーに優れた才能あふれる選手である。ユベントスに加入した最初の年に目覚ましい活躍ぶりをみせたが、続く2年目は多少低迷。カルチョスキャンダルによってインテルに移籍したが、この決断は多くのサポーターを失望させた。
最多出場選手
- 1.アレッサンドロ・デル・ピエロ 557
- 2.ガエターノ・シレア 552
- 3.ジュゼッペ・フリーノ 528
- 4.ロベルト・ベッテガ 481
- 5.ディノ・ゾフ 476
- 6.ジャンピエロ・ボニペルティ 460
- 7.サンドロ・サルバドーレ 450
- 8.フランコ・カウジオ 447
- 9.アントニオ・カブリーニ 440
最多得点選手
- 1.アレッサンドロ・デル・ピエロ 224
- 2.ジャンピエロ・ボニペルティ 179
- 3.ロベルト・ベッテガ 178
- 4.オマール・シボリ 167
- 5.ダヴィド・トレゼゲ 159
- 6.フェリーチェ・ボレル 157
- 7.ピエトロ・アナスターシ 131
- 8.ジョン・ハンセン 124
- 9.ロベルト・バッジョ 115
- 10.フェデリコ・ムネラッティ 114
プレーヤーの表彰と賞
国内タイトル
- セリエA得点王
- 1932-33 フェリーチェ・ボレル 29
- 1933-34 フェリーチェ・ボレル 31
- 1947-48 ジャンピエロ・ボニベルティ 27
- 1951-52 ジョン・ハンセン 30
- 1959-60 オマール・シボリ 27
- 1979-80 ロベルト・ベッテガ 16
- 1983-84 ミシェル・プラティニ 16
- 1984-85 ミシェル・プラティニ 20
- 1985-86 ミシェル・プラティニ 18
- 2001-02 ダヴィド・トレゼゲ 24
- セリエA最優秀選手賞
- ミシェル・プラティニ (1984)、パウロ・ソウザ (1995)、アンジェロ・ペルッツィ (1997)、パベル・ネドベド (2003)
- セリエA最優秀イタリア人選手賞
- アレッサンドロ・デル・ピエロ (1998)、ファビオ・カンナヴァーロ (2006).
- セリエA最優秀外国人選手賞
- ジネディーヌ・ジダン (1997、2001)、ダヴィド・トレゼゲ (2002)、パベル・ネドベド (2003)、ズラタン・イブラヒモビッチ(2005)
- セリエA最優秀ゴールキーパー賞
- アンジェロ・ペルッツィ (1997、1998)、ジャンルイジ・ブッフォン (1999、2001、2002、2003、2004、2005、2006)
国際タイトル
- FIFA年間最優秀選手賞
- ロベルト・バッジョ (1993)、ジネディーヌ・ジダン (1998 、2000)、ファビオ・カンナヴァーロ (2006)
- バロンドール
- オマール・シボリ (1961)、Paolo Rossi (1982)、ミシェル・プラティニ (1983、1984、1985)、ロベルト・バッジョ (1993)、ジネディーヌ・ジダン (1998)、パベル・ネドベド (2003)、ファビオ・カンナヴァーロ (2006)
選手のプライベート
選手のパートナーとして特に有名なのがジャンルイジ・ブッフォンの恋人、アレーナ・セレドヴァと、アレッサンドロ・デル・ピエロの妻、ソニア・アモルーゾで、この2人はFIFAワールドカップ2006開催中、毎試合ごとにスタンドでイタリア代表を応援する姿が見られた。
アレーナ・セレドヴァはチェコのトップモデルで、1998年にはミス・チェコ共和国にも選ばれている。長年イタリアに在住しており、TV番組のスター女優として活躍。イタリア映画にも何本か出演している。ソニア・アモルーゾは、2006年のワールドカップ開催中、青のイタリア代表ユニフォームを身にまとい、緑、白、赤のトリコロールカラーのフェイスペインティングをして代表チームを応援する姿がテレビに映し出され、一躍有名になった。決勝の対ドイツ戦でデル・ピエロがゴールを決めた後に涙を流したシーンは記憶に新しい。アレーナ、ソニアともに最近男の子を出産している(ルイス・トーマス・ブッフォンとトビアス・デル・ピエロ)。
チームタイトル
国内タイトル
- セリエA: 27回 (1905、1925-26、1930-31、1931-32、1932-33、1933-34、1934-35、1949-50、1951-52、1857-58、1959-60、1960-61、1966-67、1971-72、1972-73、1973-74、1974-75、1976-77、1977-78、1980-81、1981-82、1983-84、1985-86、1994-95、1996-97、1997-98、2001-02、2002-03)
- コッパ・イタリア: 9回 (1937-38、1941-42、1958-59、1959-60、1964-65、1978-79、1982-83、1989-90、1994-95)
- スーペルコッパ: 4回 (1995、1997、2002、2003)
国際タイトル
- インターコンチネンタル・カップ: 2回 (1985、1996)
- UEFAチャンピオンズリーグ: 2回 (1984-85、1995-96)
- UEFAカップウィナーズカップ: 1回 (1983-84)
- UEFAカップ: 3回 (1976-77、1989-90、1992-93)
- UEFAスーパーカップ: 2回 (1984、1986)
- UEFAインタートトカップ: 1回 (1999-2000)
組織
ユベントスのオーナーは地元の自動車会社、フィアット社のオーナーであるアニェッリ一族であり、2001年12月3日にイタリア証券取引所に上場。カルチョスキャンダルによる処分を受けて、すべての役員はset to zero。現在は、ジョヴァンニ・コボッリ・ジッリがユベントス代表を務めている。その他の経営陣はジャンクロード・ブラン(CEO)、カルロ・バレル・ディ・サンタルバーノ、アルド・マッツィア、ジャンパウロ・モンタリ、リカルド・モンタナーロ、マルツィオ・サア、カミーロ・ヴェネシオ。ジャンパウロ・モンタリは元バレーボールイタリア代表監督である。現在、ユーベ株の60%はジャンニ・アニェッリの甥であるジョン・ジェイコブ・エルカーンが経営するファイナンシャル企業、IFIL社が保有している。
スタッフ
- 監督: クラウディオ・ラニエリ
- アシスタントコーチ: クリスチャン・ダミアーノ
ユニフォーム
ユベントスのホーム用ユニフォームは白と黒のストライプ模様のシャツ、白のパンツとソックスという組み合わせで、アウェー用のユニフォームは黄色の横線が入った青のシャツ、青のパンツとソックスとなっている。
クラブ設立当初のユベントスのユニフォームカラーはピンクと黒であったが、1903年にノッティンガムの工場に新しいユニフォームを注文したところ(当時、イタリアには織物工場がなかった)、ノッツ・カウンティFCの黒のユニフォームが届いたというエピソードがある。この日からユベントスのチームカラーは白と黒になった。
ゴールキーパー用のユニフォームは黒一色のものが伝統として受け継がれているが、場合によってグレーのシャツを着用することもある。ここ15年の間にはクラブのテクニカルスポンサーによって様々な試みが行われ、ピンクのシャツや中心に筋肉をモチーフとしたデザインが施されたグレーのシャツ、黒と白のストライプのシャツなどもお目見えした。
スタジアム
ユベントスが現在使用しているホームスタジアムは、スタディオ・オリンピコ・ディ・トリノである。1933年建設のスタジアムで、元々は時の為政者ムッソリーニにちなんで「スタディオ・ムッソリーニ」と名付けられていた。その当時、スタディオ・ムッソリーニを使用していたのはユベントスのみで、トリノを拠点とするモウ一つのクラブ、トリノは「フィラデルフィア・スタジアム」を使用していた。第二次世界大戦終了後、スタジアムは一度「スタディオ」と改名され、その後「スタディオコムナーレ」へと名称が変わった。1980年代当時の収容数は71000人で、トリノもこのスタジアムをホームスタジアムとして使用した。1990年、ユベントスはワールドカップイタリア大会のために建設された「スタディオ・デッレ・アルピ」に移転。改修工事の末、収容数は27000人に増え、全天候型のスタジアムとなった。2006年冬季オリンピックの際は開会式と閉会式が同スタジアムで開催されている。現在ユベントスはスタディオ・オリンピコにとどまるか、あるいはデッレ・アルピを取り壊して新たなスタジアムを建設するかの二者択一を迫られている。
スポンサー
- メインスポンサー: ニューホランド(フィアットグループ)
- テクニカルスポンサー: ナイキ
- TVスポンサー: スカイTVイタリア
外部リンク
- クラブ公式サイト http://www.Juventus.com
- リーグ公式サイト http://www.lega-calcio.it
- チケット公式サイト http://www.Juventus.com/site/ita/JAY_ticket_seriea.asp?myticket=1
- スタジアム公式サイト http://www.stadiotorino.it
- トリノ市公式サイト http://www.comune.torino.it/
参照サイト
- http://www.Juventus.com
- http://www.rsssf.com
- http://en.wikipedia.org/wiki/Juventus_F.C.
- http://spazioinwind.libero.it/Juventusclubarezzo/storia.html
- http://www.storiadelcalcio.info
- http://www.lastampa.it


