1930年
全世界
予選参加208チーム、本大会出場32チーム
イタリア
History
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FIFAワールドカップ
FIFAワールドカップは、世界最高峰の国際サッカー大会であり、テレビ視聴者数などからはじき出されるその人気度や注目度では、オリンピックを凌ぐ世界最大のスポーツイベントであるともいわれる。アフリカ大陸初の開催となる2010年大会は南アフリカで2010年6月11日にスタートする。
2006年大会開催地をめぐる戦いで惜しくもドイツに敗れた南アフリカは、2010年大会に改めて立候補。ネルソンマンデラ元大統領がFIFAに対して陳情運動を行うなど、その力の入れようがしばしば話題になった。
ワールドカップの歴史
世界的なサッカー大会であるワールドカップはフランス人弁護士のジュール・リメによって企画・発案されたものである。1924年オリンピック大会開催時にFIFAの役員を務めていたリメは、ウルグアイ代表の優勝試合を観戦し、サッカー単独のオリンピック開催を思いついた。このアイディアは1928年にアムステルダムで行われたFIFAの会合で承認される。バルセロナでのFIFA特別会合で第1回大会の場所と日程が決められ、1930年に初のFIFAワールドカップが開催された。開催国はオリンピックチャンピオンであったウルグアイに決まり、同国の独立100周年とFIFAワールドカップの誕生を同時に祝う形となった。
1930年ウルグアイ大会(優勝:ウルグアイ)
記念すべき第1回大会は以後の大会と異なり、出場権をかけての地区予選は行われず、すべてのチームが招待によって参加。船での長旅のためほとんどのヨーロッパのチームが出場を辞退した中、ベルギー、フランス、ルーマニア、ユーゴスラビアの4カ国が参加に踏み切った。13の参加国が4つのグループに分けられ、グループステージを戦い、それぞれで1位になったチームが決勝トーナメントに進出。特にアルゼンチンやウルグアイといった南米チームがその強さを見せつけた。
ワールドカップ史上初のゴールを決めたのはフランスのストライカー、リュシアン・ローラン。決勝の舞台となったエスタディオ・センテナリオがウルグアイの独立記念日である7月18日にオープンし、初試合となったウルグアイ対ペルー戦ではウルグアイが1-0で勝利を収めた。グループステージを勝ち抜いたのはウルグアイ、アルゼンチン、ユーゴスラビア、アメリカの4チーム。ブラジルはまさかの敗退を喫した。
準決勝は、両試合とも6対1で決着がつき、アルゼンチン(対アメリカ)とウルグアイ(対ユーゴスラビア)が勝ち進んだ。決勝戦の取り組みはオリンピックで二度の優勝経験があるウルグアイと、今大会で得点王に輝いたストライカーのギジェルモ・スタービレ率いるアルゼンチン。9万人の観衆が見守る中、アルゼンチンのペウセレ、スタービレがゴールを決めて前半を2-1でリード。しかし後半に入るとウルグアイが勢いを盛り返し、セア、イリアルテ、カストロが次々と素晴らしいゴールを決めて3-2と逆転に成功した。初代王者となったウルグアイにはフランスの彫刻家、アベル・ラフレールによって作られた純金製のトロフィー、ジュール・リメ・トロフィーが贈られた。
1934年イタリア大会(優勝:イタリア)
初のヨーロッパ開催となった第2回大会。開催国はムッソリーニ率いるファシスト党統治下のイタリアであった。今大会から予選が行われるようになり、参加国は前回の13カ国から32カ国に大幅に増加した(大部分がヨーロッパ勢)。ノックアウト方式の予選で16チームまで絞られ、その16チームが本大会に進出した。
前回優勝国のウルグアイは参加を辞退し、イギリスも不参加を表明したが、アフリカから新たにエジプトが出場するなど大会に花を添えた。優勝候補の筆頭にはイタリアが挙げられていたが、予選、決勝トーナメントでその強さを見せつけたのはオーストリアであった。決勝ラウンド1回戦でフランスと対戦したオーストリアは延長戦の末に3-2で勝利をもぎ取った。イタリアはアメリカに7-1と大勝し、スペインはブラジルを3-1で下した。そのほか西ドイツ、ハンガリー、スウェーデン、スイス、チェコスロバキアがそれぞれ準々決勝に駒を進めた。
準々決勝ではオーストリアがハンガリーに、イタリアがスペインに、西ドイツがチェコスロバキアにそれぞれ勝利を収めて準決勝に進出。4強がすべてヨーロッパ勢で占められる結果となった。
イタリアとオーストリアによる準決勝戦ではイタリアが貴重な1点を決めてオーストリアに勝利。しかし、試合中にオーストリアのエース、シンドラーがイタリアの選手に蹴られ怪我を負ったにもかかわらず審判が何のペナルティーも取らなかったことに対し、議論の声が巻き起こった。準決勝の審判であったスウェーデン人は対戦前にムッソリーニ本人に会ったといわれており、露骨にイタリア優位の判定を繰り返した。大会終了後、イタリア戦の審判を務めたうちの何人かは母国から出場停止処分を受けたといわれている。もう一つの準決勝戦ではオルドリッヒ・ネイエドリーのハットトリックにより、チェコスロバキアが3-1で西ドイツを下した。
決勝戦はローマのPNFスタジアムで5万人の観衆を集めて行われた。試合は70分の時点でチェコスロバキアが1-0でリードしていたが、その後2点を取り逆転したイタリアがワールドカップ初優勝を果たした。大会の通算ゴール数は70に上り、5得点を挙げたチェコスロバキアのネイエドリーが得点王に輝いた。また、大会を通じてオウンゴールは一つもなく、レッドカードもわずか1枚のみだった。
1938年フランス大会(優勝:イタリア)
第3回大会の開催地はフランス。2大会連続でヨーロッパで開催するというFIFAの決定は南アメリカで大きな問題となり、結果ウルグアイとアルゼンチンが参加を辞退した。予選を勝ち抜いた14カ国と前回優勝国として自動的に出場権を得たイタリアが本大会へ進んだ。オーストリアは予選を通過したが、同年のナチス・ドイツによるオーストリア併合によって国家が消滅したため、スウェーデンが準々決勝からの参加となった。
決勝トーナメント第1ラウンドでは、ドイツが再試合でスイスにまさかの負けを喫し、イタリアはノルウェーに延長戦の末2-1で辛勝。ブラジルとポーランドの一戦ではゴールの応酬が続き、6-5でブラジルが準々決勝に進出した。そのほかキューバ、スウェーデン、ハンガリー、フランス、チェコスロバキアが準々決勝への切符を手にした。
パリで行われた準々決勝のフランスvsイタリア戦は、この大会を象徴する一戦となった。イタリアはファシズムをイメージさせる黒のユニフォームで登場。若手ストライカーのピオラが2ゴールを決め、3-1でフランスを破った。ハンガリー、ブラジル、スウェーデンもそれぞれに勝利を収め、準決勝へと進んだ。
準決勝の一試合はイタリアvsブラジル。マルセイユで行われたこの試合、観客席にはブラジルを応援するイタリア人の姿が多数見かけられたという。ゲームはイタリアがペナルティーゴールを含む2得点を決め、2-0でリード。その後、ブラジルのロメオが1点を返すが及ばず、イタリアが決勝に進むこととなった。一方のハンガリーvsスウェーデン戦では、ハンガリーが5-1の大差で勝利を決めた。
イタリアとハンガリーによる決勝戦ではヴィットーリオ・ポッツォ監督率いるイタリアがまずはリードを奪ったが、まもなくハンガリーがゴールを決めて追いついた。イタリアはその後2点を追加し、前半終了時点では3-1と再びリード。後半は両チームが1点ずつを加え、結果イタリアが4-2でワールドカップ初の連覇を達成した。なお、得点王にはブラジルのレオニダス(7得点)が輝いた。
1950年ブラジル大会(優勝:ウルグアイ)
第二次世界大戦により1938年以降中断されていたワールドカップが再び開催されたのは1950年のこと。開催国は唯一の立候補であったブラジルに決まった。参加国は13カ国(もともとは16であったが、スコットランド、インド、トルコが諸事情により出場を辞退した)。今大会からグループ制が採用され、参加国は4つのグループに分けられた。初出場となったイングランドはアメリカとスペインに0-1で敗北を喫し、決勝ラウンドへの進出はならなかった。ブラジルはユーゴスラビアとメキシコに勝利し、スウェーデンは強豪イタリアを打破、ウルグアイはボリビアに8-0で大勝し、それぞれ決勝ラウンドへの進出を決めた。決勝ラウンドに駒を進めた4チームが総当たり戦を行い、最も勝ち点の多かったチームが優勝となったこの大会。ジジーニョらスタープレーヤーを抱えるブラジルは7-1でスウェーデンを下し、さらにスペインに6-1で圧勝。誰もがブラジルの優勝を予想していた。
最後の対戦相手はウルグアイ。ウルグアイはここまでスウェーデンに3-2という僅差で勝利を収め、スペインとは2-2で引き分けていた。この最終戦で引き分け以上の結果を残せば、ブラジルの優勝が決まることになっていた。
決戦の舞台となったリオデジャネイロのエスタジオ・ド・マラカナンには16万人の観衆が集まった。後半開始2分にフリアカのゴールでブラジルが先制。しかし、ウルグアイは後半21分にスキアフィーノが同点ゴール、34分にギジャが逆転ゴールを決め、そのまま試合は終了。この結果、ウルグアイが二度目のトロフィーを授与されることとなった。まさかの逆転負けで優勝を逃したブラジル。敗戦のショックによりスタジアム内では自殺やショック死で命を落とす人も出、ブラジルサッカー史上最悪の悲劇となった(マラカナンの悲劇)。なお、この大会の得点王は9ゴールを決めたブラジルのアデミールであった。
1954年スイス大会(優勝:西ドイツ)
5回目となる大会はスイスで開催された。これはちょうどこの年がFIFA創立50周年に当たったため、本部のあるスイスが開催国となったといういきさつがある。各地区予選を突破した16チームが4チームずつ4つのグループに分けられた。各グループの上位2チームが準々決勝に進み、2位と3位の勝ち点が同一の場合はプレーオフが行われることとなった。また、グループステージに初めてシード制が導入された。この大会で初出場を果たしたのは韓国とトルコ。西と東に分裂したドイツは西ドイツのみが予選突破を果たした。
グループステージでの大番狂わせといえば、スイスがイタリアをプレーオフの末、4-1で下した試合である。また、西ドイツもプレーオフの末にトルコを破り、ブラジル、ユーゴスラビア、ハンガリー、ウルグアイ、オーストリア、イングランドとともに準々決勝に進んだ。準々決勝は点取り合戦となる試合が多く、なかでもオーストリアとスイスによる“アルプスダービー”では合計ゴール数が12に上った。準決勝に進んだ西ドイツはオーストリアに6-1で大勝し、ハンガリーはウルグアイを4-2で下した。
当初から優勝候補と目されていたハンガリーが決勝まで進み、西ドイツとの一戦を迎えた。ハンガリーのフェレンツ・プスカシュが開始6分に先制点を挙げ、その2分後にゾルターン・チボールが点を加えてハンガリーが一気に優勢ムードへ。しかし、前半終了前に西ドイツのマックス・モーロックとヘルムート・ラーンがゴールを決めて追いつき、その後ラーンが2点目を決めて西ドイツが3対2と逆転。ゲルマン魂をみせつけた西ドイツが史上3カ国目となる初優勝を遂げた。なお、ハンガリー代表のコチシュはこの大会で11得点を決め、得点王となった。
1958年スウェーデン大会(優勝:ブラジル)
1958年大会はスウェーデンの12スタジアム(うち2スタジアムだけが収容数5万人以上)を舞台に開催された。ソ連が初めて大会に参加したほか、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドが初めて予選に出場。予選参加国は48となった。本大会では前回同様16チームが4カ国ずつ4つのグループに分けられた。しかし、グループ内では今大会より総当たり戦が行われることとなり、延長戦も廃止された。また、2位と3位のチームが同じ勝ち点で並んだ場合にはプレーオフが実施されることとなった。死のグループといわれたグループDからはブラジルが突破を決め、ソ連とイングランドの間でプレーオフが行われた。結果はソ連の勝利となり、グループステージを突破できたイギリス勢はウェールズと北アイルランドだけであった。
ブラジルの新星、ペレが17歳で華麗なデビューを果たしたのもこの大会である。ペレは対ウェールズ戦でも貴重な1点を挙げ、ブラジルを準決勝へと導いた。その他の決勝トーナメント準々決勝ではスウェーデンがソ連を破り、西ドイツがユーゴスラビアを下し、そしてフランスが北アイルランドに4-0で勝利した。フランスとブラジルの準決勝ではジジ、ババ、ペレ(ハットトリックを達成)の活躍でブラジルが5点を量産しフランスを圧倒。スウェーデンは西ドイツを3-1で破った。3位決定戦ではフランスが6-3で西ドイツを破り、この試合で4得点を挙げたフランスのジュスト・フォンテーヌが対会通算13ゴールで得点王に輝いた(この記録は未だに破られていない)。
決勝戦はソルナのロースンダ・スタジアムで開催された。開始わずか4分でスウェーデンがゴールを決めてリードしたが、ブラジルのババがまたたくまに1点を入れて追いつき、さらにハーフタイム前にゴールを決めてブラジルが逆転した。後半にはペレが2点を決めるなど完全に試合を支配。ブラジルが5-2でスウェーデンに圧勝し、初のジュール・リメ杯を手にした。
1962年チリ大会(優勝:ブラジル)
1962年大会の開催国は1960年に発生した大地震によって大きな被害を被ったチリ。大会方式は前大会と同じであったが、グループステージでの勝ち点が同点となった場合はプレーオフではなく得失点差によって順位が決定されることとなった。グループステージからはソ連、ユーゴスラビア、西ドイツ、イングランド、チェコスロバキア、ハンガリーのヨーロッパ勢6チームと、ブラジル、チリの南アメリカ勢2チームが決勝トーナメントに進出した。イタリアは2人の退場処分者を出したチリとの試合に敗れて敗退し、ブラジルのスタープレーヤー、ペレはチェコスロバキアとの一戦で負傷し、早くも大会を退くこととなった。
準々決勝では開催国のチリがソ連を下し、ペレの代わりを務めたガリンシャが活躍し、イングランドを破った。ユーゴスラビアとチェコスロバキアも準決勝へと進出した。準決勝ではブラジルがチリを4-2で破り、ユーゴスラビアを下したチェコスロバキアと決勝で顔を合わせることとなった。首都サンティアゴで行われた決勝戦。開始15分でチェコスロバキアが1点のリードを奪ったものの、わずか2分後にはアマリウドの得点でブラジルが1-1の同点に追いついた。後半にはジトとババの得点でブラジルが3-1と逆転。ブラジルはイタリアにつづき、史上2カ国目の2連覇を達成した。
1966年イングランド大会(優勝:イングランド)
1966年大会の開催国はイングランド。ウェンブリースタジアムを含む8つのスタジアムで本大会が行われた。予選には70チームが参加し、ヨーロッパからは10カ国が予選通過を果たした。この他には南米から4カ国、そして北中米カリブ海からメキシコ、アジアから朝鮮民主主義人民共和国が初出場した。
グループDに所属した北朝鮮は強豪イタリアを退けて2位で決勝トーナメントに進出するという快挙を達成。母国へと帰ったイタリア代表選手らは、市民からブーイングの嵐を受けることとなった。ブラジル、スペイン、フランスなどの強豪が揃って姿を消し、イングランド、ウルグアイ、西ドイツ、アルゼンチン、ポルトガル、ハンガリー、ソ連が決勝トーナメントへ進出した。
準々決勝でポルトガルを相手に迎えた北朝鮮は当初3-0と大きくリードしていたが、その後ポルトガルのエウセビオが4点を入れるという離れ業をみせ、結果5-3でポルトガルが準決勝進出を決めた。イングランドはアルゼンチンに勝利し、西ドイツはウルグアイに4-0と大勝。ソ連もハンガリーを破って準決勝へと進んだ。準決勝のイングランド対ポルトガル戦では、イングランドのボビー・チャールトンがゴールを決めてポルトガルを打破。西ドイツはソ連を2-1で下して決勝へのチケットを手にした。
7月30日、ロンドンのウェンブリースタジアムで開催された決勝戦。試合は2-2のまま延長戦に突入した。延長前半10分にイングランドのジェフ・ハーストがシュートを放ち、クロスバーに当たりほぼ真下に跳ね返った。ゴールを確認できなかった主審は線審に確認を求め、線審は得点が決まったと伝えたためイングランドが3-2とリードした。しかしこの真偽については当時から激しい議論の的となっていた。ハーストは120分に史上唯一となる決勝でのハットトリックを決めて4-2とし、イングランドの優勝を決定的なものにした。イングランド代表は、優勝式典で女王エリザベス2世からトロフィーを受け取った。得点王は9ゴールを決めたポルトガルのエウゼビオ。
1970年メキシコ大会(優勝:ブラジル)
75チームが予選参加を果たしたメキシコ大会。自動的に出場権が与えられたメキシコとイングランドのほかには、エルサルバドル、イスラエル、モロッコといった初参戦組を含め14チームが本大会に進出を決めた。
グループステージを勝ち抜いたのはメキシコ、ソ連、イタリア、ウルグアイ、ブラジル、イングランド、西ドイツ、ペルー。イタリアはグループステージを通してわずか1点しか獲得できなかったにもかかわらず、1位で通過を決めた。西ドイツとペルーは初めての決勝トーナメント進出となった。
開催国のメキシコは準々決勝でイタリアと対戦。結果は4-1でイタリアが圧勝した。西ドイツは1966年大会での決勝と同じく、イングランドを相手に迎える。延長戦の末、準決勝への切符を手にしたのは西ドイツであった。準々決勝をともに勝ち進んだブラジルとウルグアイは準決勝で顔を合わせた。結果は南アメリカ予選準決勝と同様、ブラジルがウルグアイを3-1で下した。
もう一つの準決勝、イタリア対西ドイツはサッカーの歴史においても非常に重要な意味を持つ試合となった。イタリアリードで迎えた後半、試合間際でドイツが同点ゴールを決め、試合は延長戦へ。ドイツのミュラーが先制点を挙げるとイタリアのブルグニチとリヴァがゴールを決めて逆転。その後ミュラーが2点目を挙げて再び同点とし、最後にはリヴァが同じく2点目を決め、イタリアが4-3で勝利を手にした。
勢いに乗るイタリアの前に立ちはだかったのが、ブラジルサッカーの歴史においても最強といわれたブラジルである。カルロス・アルベルト、ジャイルジーニョ、ロベルト・リベリーノ、トスタン、ジェルソンといったスタープレーヤーがペレの周りを固めていた。ブラジルは4-1でイタリアを破り、3度目の優勝を飾ったことで規則により当時の「ジュール・リメ杯」の永劫所有権を獲得した(1974年西ドイツ大会からは、トロフィーの名称も現在の「FIFAワールドカップ」に変更された)。得点王は10ゴールを決めた西ドイツのゲルト・ミュラーだった。
1974年西ドイツ大会(優勝:西ドイツ)
1974年、ワールドカップは再びヨーロッパへ戻った。予選大会には最多記録となる99チームが参加。西ドイツとブラジルは自動的に本大会出場権を得、そのほかヨーロッパから8チーム、南アメリカから3チーム、そしてハイチ、ザイール(現在のコンゴ)、オーストラリアが本大会出場を決めた。イングランドは予選敗退を喫した。グループステージ第1ラウンドは4チームずつ4つのグループに分けられた。各グループの1位と2位チームが第2ラウンドに進出し、4チームずつ2グループに分けられた。各グループの1位が決勝戦を行い、各グループの2位チームが3位決定戦を行った。
第1ラウンドでは、ハンブルクの試合会場で東ドイツ対西ドイツ戦が行われた。これは東西ドイツが対戦した唯一の試合であり、結果は1-0で東ドイツが勝利した。最終的には両チームともに第2ラウンドへの出場権を獲得している。グループBに属したユーゴスラビアはザイールに9-0で圧勝するなどし、ブラジルを抑えて1位で第2ラウンドへ進んだ。グループCでは「トータルフットボール」を実現させたオランダが全勝し、スウェーデンとともに第1ラウンドを突破。グループDからはポーランドとアルゼンチンが勝ち進んだ。
第2ラウンドグループ1でトップに躍り出たのはアルゼンチンを4-0で下したオランダである。グループ2からは西ドイツ(全勝)が進出し、7月7日、ミュンヘンでオランダ対西ドイツの決勝戦が行われた。最初にリードしたのはオランダであったが、その後パウル・ブライトナーが同点ゴールを、さらに44分にはゲルト・ミュラーが逆転ゴールをたたき出し、西ドイツがイタリア、ウルグアイに並ぶ二度目の優勝を果たした。
1978年アルゼンチン大会(優勝:アルゼンチン)
大会直前に勃発した政情不安や軍事政権による介入などにより、大会の実現自体を危ぶむ声も聞かれたアルゼンチン大会。大会方式は前回と変わらず、地区予選を通じて選ばれた16チームが、4チームごと4グループに分けられた。イランとチュニジアが初出場を果たした。16年ぶりに南半球へと戻って来たトロフィーをめぐり、5都市6スタジアムで死闘が繰り広げられた。
イングランドは予選でイタリアと対戦し、得失点差で惜しくも敗退。イタリアはグループステージ第1ラウンドを1位で通過した。開催国のアルゼンチンはイタリアに敗れたものの2位で第2ラウンドへ進出。グループBではチュニジアが善戦したが一歩及ばず、西ドイツとポーランドが通過を決めた。グループCのオーストリアは強豪スペインとスェーデンを破り1位で第1ラウンドを通過。グループDではペルーが1位突破を果たし、スコットランドに得失点差で勝ったオランダがそれに続いた。
第2ラウンドはいずれも接戦となり、オランダとアルゼンチンが決勝に駒を進めた。アルゼンチンは決勝進出をかけて臨んだペルーとの試合で6つのゴールを量産。決勝進出のためには4-0以上で勝つ必要があったアルゼンチンが、奇跡を実現させたとして大きな話題となった。決勝戦はアルゼンチンとオランダという組み合わせになった。90分まで両者1点ずつの同点で、試合は延長戦へ。アルゼンチンのケンペスとベルトーニがゴールを決め、開催国のアルゼンチンが初めてのトロフィーを手にした。得点王は6ゴールを決めたアルゼンチンのマリオ・ケンペスに贈られた。
1982年スペイン大会(優勝:イタリア)
今大会から方式を変更。出場国数は24に増やされ、4チームずつ6グループに分けられた。各グループの1位と2位が第2ラウンドに進出し、再び3チームずつ4グループに分けられた。各グループの1位チームが決勝トーナメントに進出し、トーナメント方式で準決勝、決勝を戦う。また予選参加チームが初めて100を突破したのもこの大会であった。本大会への初めての切符を手にしたのはホンジュラス、アルジェリア、カメルーン、クウェート、ニュージーランドであった。
グループステージで目覚ましい活躍をみせたのは初出場のアルジェリア。強豪西ドイツを破ったが、得失点差で惜しくも3位にとどまった。また、このステージではワールドカップ史上唯一の得点取り消しがあったことでも有名である。グループDのフランス対クウェート戦で、フランスの放ったシュートがクウェートのゴールネットを揺らし、審判が一度はゴールを宣した。しかし、観戦中だったクウェートのファハド王子がピッチに入り、主審に何かを告げたところ、「不測の事態が起こった」との理由で、そのゴールは取り消されてしまったのである。イタリアは3試合が引き分けに終わったものの何とか第2ラウンドへ進出。しかし当時はカメルーンとの間で八百長があったのではとの噂がメディアを騒がせた。
第2ラウンドではポーランド、イタリア、ドイツ、フランスが順当に勝ち上がった。準決勝でポーランドを相手に迎えたイタリアは2-0と快勝。一方、西ドイツ対フランス戦はこの大会を象徴する試合ともいえる一戦であった。1-1で迎えた延長戦で一時は3-1と離された西ドイツが3対3に追いつき、PK戦の末5-4で西ドイツが勝利をもぎとった。決勝のイタリア対西ドイツ戦ではイタリアが3点を挙げ、西ドイツを撃破。3度目のトロフィーを手にした。最後の3試合で6ゴールを挙げたイタリアのパオロ・ロッシが得点王となった。
1986年メキシコ大会(優勝:アルゼンチン)
当初はコロンビアで開催される予定だったが、1983年、経済状態の悪化によりコロンビアの大会組織委員会が開催権を返上、メキシコが開催国となった。メキシコは1970年以来、16年ぶり二度目のワールドカップ開催となった。初参加の9チームが加わって、合計113チームが予選大会に出場。決勝ラウンドは今大会よりトーナメント方式に変更され、各グループの1位と2位、それに3位のチームのなかで勝ち点の多い上位4チームの合計16チームが選ばれることとなった。イラクとカナダが初めてグループステージに登場したが、いずれも全敗に終わった。
グループステージではアフリカ勢の活躍が目立ち、グループFのモロッコはイングランド、ポーランド、ポルトガルといったビッグチームを差し押さえて1位で決勝トーナメントへの進出を決めた。ラウンド16でも西ドイツを相手に互角の戦いぶりをみせたが、終了2分前に西ドイツのローター・マテウスがゴールを決め、あえなくベスト16敗退となった。そのほか準々決勝にはメキシコ、ベルギー、ブラジル、アルゼンチン、フランス、イングランド、スペインが勝ち進んだ。
準々決勝4試合のうち3試合がPK戦での勝負となった。この大会で最も注目を集めたアルゼンチンのディエゴ・マラドーナ。なかでも最も有名な試合は、準々決勝の対イングランド戦である。マラドーナは2点を決め、チームも2対1で勝利。最初のゴールはいわゆる「神の手」と呼ばれるもので、ヘディングを狙いにいったマラドーナの手に当たってボールがゴールに入ったというもの。審判はマラドーナのハンドを確認することができず、イングランド代表の抗議も実らずゴールが認められた。2点目はセンターライン付近からドリブルを始め、ゴールキーパーのシルトンを含めて5人のイングランド選手をドリブルで抜いた、いわゆる「5人抜き」による得点である。このほかベルギー、フランス、西ドイツが準決勝に駒を進めた。
準決勝の組み合わせはフランスvs西ドイツ、アルゼンチンvsベルギー。西ドイツが2-0でフランスを下し、アルゼンチンも同じスコアでベルギーを破った。ここでもマラドーナが2得点を挙げた。メキシコシティのエスタディオ・アステカで11万人以上の観衆が見守る中で行われた決勝戦。アルゼンチンはブラウンとバルダーノがゴールを決め、2-0で西ドイツをリード。74分にはルンメニゲが1点を返し、さらにフェラーがゴールを決めて2-2の同点としたが、83分、アルゼンチンのブルチャガが目の覚めるようなカウンタアタックで逆転ゴールを決め、アルゼンチンの勝利が決まった。3位入賞はフランス、得点王は6ゴールを決めたイングランドのゲイリー・リネカーに贈られた。
1990年イタリア大会(優勝:西ドイツ)
二度目の開催となるイタリア大会。105のチームが予選に参加した(メキシコは大会以前に行われたユースの大会で規定年齢より上の選手が出場していたことが判明し、W杯への出場を禁じられた)。本大会では前回と同じ競技方式が採用され、24チームが参加し、4チームごとに6つのグループに分けられた。グループステージ初出場となった国はコスタリカ、UAE、アイルランドである。
グループステージでの番狂わせといえば、大会の初戦で前回優勝国のアルゼンチンがカメルーンに1-0で敗れたことである。しかし、その後アルゼンチンはチームを建て直し、トーナメントにグループ3位でありながら進出を決め、トーナメント1回戦で宿敵ブラジルと対戦。カニージャが貴重な1点を決めて準々決勝進出を果たした。カメルーンはコロンビアに、イタリアはウルグアイにそれぞれ勝利。そのほかには西ドイツ、アイルランド、ユーゴスラビア、チェコスロバキアなどが次のステージへの切符を手にした。
今大会で期待以上の活躍をみせたカメルーンとユーゴスラビアは準々決勝で惜しくも敗退。カメルーンはイングランドに延長戦の末3-2で破れたものの、観客席からはその健闘ぶりに惜しみない拍手が送られた。ユーゴスラビアもまたアルゼンチンを相手に0-0と奮闘し、PK戦まで持ち込んだ(結果3-2でアルゼンチンが勝利)。イタリアはアイルランドに、西ドイツはチェコスロバキアにいずれも1-0という僅差で勝利を収めた。
当時セリエAのナポリに所属していたマラドーナ率いるアルゼンチンとイタリアの準決勝戦には、開催地でも特に大きな関心が集まった。イタリアのサルヴァトーレ・スキラッチが先制点を決めてリード。しかしアルゼンチンは今大会で地元イタリアに対戦した国の中で唯一の得点をきめて1-1に持ち込み、延長戦の結果PK戦で勝利した。決勝戦の顔合わせはアルゼンチンvs西ドイツ。ゴールに恵まれない試合だったが、唯一の1点を決めた西ドイツが優勝。イタリアは3位決定戦を勝ってブロンズを手にした。イタリアのスキラッチは登場した6試合の毎試合で得点を決め、6得点でこの大会の得点王になった。
1994年アメリカ大会(優勝:ブラジル)
ワールドカップ史上初めてヨーロッパと南アメリカ以外の国で開催された1994年大会。アメリカ国内9都市のスタジアムで試合が行われた。予選に参加したのは133チーム。ソビエト連邦解体の余波を受けてユーゴスラビアが初の不参加を決めた。ロシア(ソビエト連邦から変更)、ギリシャ、ナイジェリア、サウジアラビアが初めて予選を突破し本大会に駒を進めた一方で、強豪のフランスやイングランド、ユーロ1992の覇者であるデンマークなどがいずれも予選敗退を喫した。またこの大会よりいくつかのルール変更があった。まず、ゴールキーパーはバックパスを受ける際に手でボールを触ってはいけないということ、そして勝ち点として今大会より3ポイントが加えられることとなった。
グループステージではサウジアラビアが初出場にも関わらず大健闘をみせ、ベルギーを破ってラウンド16に進出。一方イタリアやアルゼンチンといった優勝候補はぎりぎりのところでグループステージを突破した。グループBのカメルーンはわずか1点しか挙げることができなかった。
初出場のナイジェリアもグループステージを1位で突破する快挙をみせ、決勝トーナメント1回戦でイタリアと対決。88分までナイジェリアが1-0でリードしていたものの、イタリアのロベルト・バッジョが終了間際に同点ゴールを決め、延長戦でも再びバッジョがペナルティーゴールを決めて逆転した。サウジアラビアはスウェーデンに3-1で破れた。アルゼンチン(マラドーナはドーピング問題で出場停止)はルーマニアにまさかの負けを喫し、ドイツ、オランダ、ブラジル、ブルガリア、スペインなどが準々決勝進出を果たした。
ボストンのフォックスボロ・スタジアムで行われたイタリアとスペインの準々決勝は、その後大きな議論の的となった。試合は2-1でイタリアが勝利したが、イタリアのディフェンダー、タソッティがスペインのルイス・エンリケに肘鉄を食らわせた場面がTVで放映され、その後タソッティは9試合の出場停止処分を受ける事態に発展した。ブラジルがオランダを3-2で破った試合も見応えのある一戦として語り継がれている。ブルガリアはドイツに勝ち、スウェーデンはルーマニアにPK戦の末勝利した。
準決勝戦の組み合わせはイタリアvsブルガリア、ブラジルvsスウェーデン。イタリアとブラジルが僅差ながらも順当に勝ち上がった。決勝は7月17日、パサデナのローズボウルで95000人近い観客を集めて行われた。120分の死闘を繰り広げながらも両チームともに点が入らず、結果はスコアレスドロー。この大会で初めて、決勝の勝敗の行方がPK戦にまで持ち越されることとなった。イタリアはバレージ、マッサーロ、バッジョがいずれも失敗。ブラジルはマルシオ・サントス以外はすべて成功し、ブラジルが3-2で4度目のワールドカップ制覇を達成した。3位にはスウェーデンが入り、ブルガリアのストイチコフとロシアのサレンコがいずれも6得点で得点王に輝いた。
1998年フランス大会(優勝:フランス)
本大会の出場国数が32に増加して初めての大会となったフランス大会。予選には174チームが参加した。グループステージはそれまでの4チーム×6グループから4チーム×8グループに増加し、各グループの上位2チーム、合計16チームが決勝トーナメントに進出した。開催都市は全部で9、合計10のスタジアムで試合が行われた。1990年大会、1994年大会と悔しい予選敗退を喫したフランスが開催国となり、クロアチア、南アフリカ、ジャマイカ、日本が初参加を果たした。優勝候補の筆頭に挙げられたのはブラジル、フランス、そしてユーロ1996を制したドイツであった。また今大会より、背後からタックルを仕掛けた選手には即刻レッドカードが出されるというルールが加わった。
グループステージ唯一の番狂わせといえば、グループDに所属していたスペインが予選敗退を喫したことである。グループDからはナイジェリアとパラグアイが決勝トーナメントに駒を進めた。本大会のラウンド16ではブラジルがチリを4-1で圧倒し、デンマークも同スコアでナイジェリアに勝利した。フランスはロスタイムに1点を入れてパラグアイを破り、アルゼンチンとイングランドは1-1の引き分けでPK戦での勝負となり、結果アルゼンチンが勝利をもぎとった。そのほかイタリア、クロアチア、ドイツ、オランダが準々決勝へと進んだ。
準々決勝初戦のイタリア対フランスはスコアレスドローでPK戦へ突入。イタリア5人目のルイジ・ディ・ビアジョがゴールを外した瞬間、フランスの勝利が決まった。ドイツは初出場のクロアチアに0-3と大敗。オランダはアルゼンチンに2-1で辛勝し、ブラジルはリバウドが2点を獲得するなどしてデンマークを破った。
マルセイユのスタッド・ヴェロドロームで行われたブラジル対オランダの準決勝はPK戦へ。オランダ4人目のコクーと5人目のR・デ・ブールが相次いで失敗し、ブラジルが決勝へと進んだ。もう一つの準決勝戦、フランス対クロアチアはサン=ドニのスタッド・ド・フランスで行われ、フランスのテュラムが2得点を挙げてクロアチアを破った。
決勝戦が開催されたのは7月12日。場所はサン=ドニのスタッド・ド・フランスである。ブラジル有利といわれる中、フランスが開催国としての意地を見せつけ、3-0でブラジルを破った。当時ユベントスに在籍していたジダンが2ゴールを挙げる活躍ぶりをみせたほか、プティが決定打となる3点目を奪取。「パリの悲劇」によりアメリカ大会に出場できなかったフランスが、1978年大会のアルゼンチン以来20年ぶり史上7カ国目の初優勝を遂げた。
2002年韓国&日本大会(優勝:ブラジル)
大会史上初のアジア開催となった2002年大会。さらに二国による共同開催というスタイルも初めての試みであった。予選には199の代表チームが参加。また、この大会の決勝トーナメントにおけるロスタイムで初めてゴールデンゴールルールが適用された。フランス、日本、韓国は自動的に出場権が与えられ、中国、エクアドル、セネガル、スロベニアが初出場を果たした。一方強豪オランダはまさかの予選敗退に終わり、人々の話題をさらった。
グループステージでも大きな番狂わせがあった。ワールドカップ1998年大会とユーロ2000の優勝チームであるフランスが、グループリーグ最下位でまさかの敗退。初戦でフランスを破った初出場のセネガルとデンマークが決勝トーナメントに駒を進めた。また、アルゼンチン、ナイジェリア、スウェーデン、イングランドが集まり「死のグループ」と呼ばれたグループFでは、優勝候補といわれたアルゼンチンがグループリーグ敗退を喫するという波乱に見舞われた。開催国となった韓国はポーランドに勝利するなどして1位でグループステージを通過。アメリカは強敵ポルトガルを退けて同じく決勝ラウンドに進んだ。もう一つの優勝候補ともいわれたイタリアは、最終試合でエクアドルがクロアチアを1-0で破ったため、ぎりぎりのところで2位通過を実現させることができた。グループHでベルギー、ロシア、チュニジアと戦った日本は勝ち点7を挙げ、1位で決勝トーナメントへの切符を手にした。
決勝トーナメント、ラウンド16。パラグアイを相手に迎えたドイツは試合終了間際で1点を挙げて準々決勝進出を決める。イングランドは3-0でデンマークに大勝し、勢いに乗るセネガルはH.カマラのゴールデンゴールでスウェーデンに勝利。アイルランドはロビー・キーンが90分に貴重なペナルティーゴールを決めて同点とするも、PK戦で惜しくもスペインに破れた。アメリカはメキシコに2-0で勝利、ブラジルもベルギーを2-0で破った。グループステージでの活躍が注目された日本はトルコと対決。試合開始12分にトルコのダヴァラに1点を奪われて以降、結局スコアを覆すことができず、準々決勝進出はならなかった。一方、韓国はイタリアと対戦。試合開始早々、主審モレノが韓国にペナルティーキックのチャンスを与えるが、これをイタリアの守護神、ブッフォンがセーブ。18分にヴィエリが先制点を挙げるが、韓国も後半終了間際に1点を返し、試合は延長戦へともつれ込んだ。延長戦でトッティがシミュレーション判定を取られ、累積警告で退場。117分、当時ペルージャに所属していた安貞桓がゴールデンゴールを決め、韓国の勝利が決まった。しかしこの試合は主審や線審の判定をめぐり、「ホスト国の韓国代表に対し意図的に有利な判定が行われたのではないか」との疑惑が広まった。
この騒動は、その後の準々決勝でも再度勃発。強敵スペインを迎えた韓国はPK戦の末、奇跡の勝利を収める。しかし、二度にわたるスペインゴールの取り消しなど、ここでも審判の判断に疑問の声が上がった。イタリア、フランス、アルゼンチンを欠いた準々決勝で最も大きな注目を集めたのがイングランド対ブラジルの一戦である。23分にイングランドのオーウェンが先制点を挙げると、その後ブラジルのリバウドとロナウジーニョがそれぞれゴールを決め、その強さを見せつけた。ドイツは目覚ましい活躍はなかったもののアメリカに1-0と辛勝。トルコとセネガルの一戦は延長戦にトルコのイルハンがゴールデンゴールを決め、トルコに勝利をもたらした。
準決勝でブラジルは1-0でトルコに勝利。韓国はドイツの前に1-0で破れた。ブラジルとドイツという顔合わせになった決勝戦ではブラジルのロナウドが2点をたたき出し、ドイツを撃破。大会史上最高となる5度目の優勝を果たした。ロナウドは合計8ゴールを決め、得点王に輝いた。また3位決定戦ではトルコが韓国に勝利し、初の3位入賞を果たした。
2006年ドイツ大会(優勝:イタリア)
ドイツが開催国となった第18回ワールドカップは。198チームが参加した予選大会では数多くの番狂わせが起こった。アフリカ予選ではカメルーン、ナイジェリアといった強豪が相次いで脱落し、代わりにトーゴ、コートジボワール、アンゴラ、ガーナといった新顔が本大会出場権を獲得した。2002年大会で3位となったトルコはプレーオフでスウェーデンに敗退。ACミラン所属のスタープレーヤー、アンドリー・シェフチェンコ率いるウクライナが初めて本大会への切符を手にした。ほかにトリニダードトバゴ、オーストラリア(南米予選5位のウルグアイとのプレーオフで勝利)が本大会初出場を果たした。
グループ予選ではアジア予選を勝ち抜いた4カ国(日本、サウジアラビア、韓国、イラン)すべてが敗退。ヨーロッパ14カ国中10カ国のほか、南アメリカの3カ国とメキシコ、オーストラリア、ガーナが決勝トーナメントに進んだ。ラウンド16では接戦が多かったが、ブラジルだけは例外ともいえる強さを見せつけ、ロナウド、アドリアーノ、ゼロベルトがゴールを決め、3-0でガーナを下した。準々決勝では開催国のドイツが強豪アルゼンチンと対決。アルゼンチンはマキシ・ロドリゲスがロスタイムに決めたゴールでメキシコを破り、波に乗っていた。しかし、1-1で迎えたPK戦の末、勝利を手にしたのはドイツであった。イングランドは1-0でパラグアイに勝利。ポルトガルとオランダの試合はレッドカード4枚、イエローカード8枚が吹き荒れる波乱の一戦となった。
初出場のウクライナはPK戦の末にスイスを破り、ベスト8進出を果たす。同じく初出場のオーストラリアはイタリアを相手に迎え、0-0のままロスタイムに突入。イタリアのトッティがペナルティーゴールを決め、イタリアが辛くも逃げ切る形となった。フランスはスペインと対戦し、リベリー、ヴィエラ、ジダンがそれぞれゴールを決め3-1で勝利を決めた。準々決勝はヨーロッパ勢が8チーム中6チームとほぼ独占。残りの2チームは南アメリカのブラジルとアルゼンチンという、強豪ぞろいのベスト8となった。
準々決勝の大一番はドイツvsアルゼンチンと、フランスvsブラジル。1-1のままPK戦へと進んだドイツとアルゼンチンの試合は、4-2でドイツが勝利をもぎとった。「カルテット・マジコ」と呼ばれる豪華な攻撃陣を抱え優勝候補の筆頭に挙げられていたブラジルは、そのマジコがまったく機能せず、結局フランスに1-0で破れてしまった。貴重な1点を挙げたのはジダンからのフリーキックにうまく合わせたティエリ・アンリだった。イタリアは3-0でウクライナに大勝、ポルトガルはイングランドにPK戦の末3-1で辛くも勝利した。ベスト4に勝ち残ったのは1982年大会同様、ヨーロッパ勢4チームであった。
準決勝初戦はドイツ対イタリアの一戦。両者譲らず、0-0のまま延長戦へと突入した119分。誰しもがPK戦での決着を確信したその瞬間に、イタリアのファビオグ・ロッソが先制点を決める。そのすぐ後に、またしてもイタリアのデルピエロが2点目を決めて勝利を決定的なものにした。一方フランスはポルトガルに1-0で勝利し、決勝ではイタリアvsフランスというユーロ2000決勝をほうふつとさせる対決が実現することとなった。
ドイツは3位決定戦でポルトガルに3-0と快勝。決勝戦はベルリンのオリンピア・シュタディオンで開催された。試合開始後わずか7分にはフランスのジダンがペナルティーゴールを決めて先制。予選、親善試合、そして開幕後のグループリーグでも苦戦し、早期敗退が予想されていたフランスは、本大会限りで引退するジダンの花道を飾ろうとチームが団結し、決勝トーナメント進出以降めきめきと力を上げていた。イタリアのマテラッツィが同点ゴールを挙げた以降は両チームともに得点に恵まれず、勝敗の行方はPK戦に託されることとなった。
PK戦ではフランスのトレゼゲが放ったボールがバーにはじき返され、イタリアが4度目の優勝を果たした。開幕前に勃発したカルチョ・スキャンダルに揺れていたイタリア。その苦境をバネにした選手たちが念願の優勝を手にするというドラマティックな幕引きとなった。
なおこの大会の得点王はドイツのストライカー、ミロスラフ・クローゼで、合計5得点を挙げた。また、この大会では大会史上初めて、ハットトリックの達成者が出なかった。日本代表の中田英寿をはじめジダン、フィーゴ、カーン、ネドヴェドなどがこの大会を最後に現役あるいは代表を引退することを表明した。
2010年南アフリカ大会
FIFAワールドカップ2010は南アフリカで開催される。大会が始まって以来始めてのアフリカ大陸開催となるため、世界中から大きな注目が集まっている。エジプトやモロッコなど、名乗りを上げた他国との間での熾烈な開催地争いをくぐり抜け、南アフリカが見事その栄冠を勝ち取った。決勝戦が行われるヨハネスブルグのスタジアムをはじめ、国内各地のスタジアムではその最終準備に余念がない。
2014年ブラジル大会
2014 FIFAワールドカップ2014はブラジルで開催されることが決定している。南アメリカの国が開催国となるのはこれで二度目。ブラジル国内の各スタジアムは収容数の増加のための拡張工事など、来る一大イベントに向けてすでに準備を始めている。現在までに19の都市が開催地候補として名乗りを上げている。
ブラジル代表はこれまでのワールドカップの歴史の中でも最も多くの成功を収めたチームであり、すでに2014年大会への出場が決定している唯一のチームでもある。パトやカカといったブラジル代表を率いる若き精鋭たちの活躍が期待されている。
トロフィー
1971年に制作された二代目となるFIFAワールドカップトロフィー(初代のトロフィーはブラジルに永久に渡されることが決定した後、盗難にあった)は、マラカイト装飾入りの金でできており、高さは36.5cm、重さは6.2kg。イタリアの彫刻家、シルヴィオ・ガザニガの手によって作られたトロフィーは、二人のサッカー選手が手を上げて地球を支える様子をモチーフにしている。当時の制作費は約5万ドルであったが、現在の価値は1000万USドル以上ともいわれている。2006年ドイツ大会から、オリジナルは表彰式直後にFIFAによって回収・保管されることとなり、優勝国のサッカー協会にはレプリカが贈られる。
歴代大会の結果
| 年 | 優勝 | 準優勝 | スコア | キャプテン | 監督 | 3位 | 開催国 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1930 | ウルグアイ | アルゼンチン | 4-2 | ホセ・ナサシ | オンディーノ・ヴィエラ | アメリカ | ウルグアイ |
| 1934 | イタリア | チェコスロバキア | 2-1 | ジャンピエロ・コンビ | ヴィットリオ・ポッツォ | 西ドイツ | イタリア |
| 1938 | イタリア | ハンガリー | 4-2 | ジュゼッペ・メアッツァ | ヴィットリオ・ポッツォ | ブラジル | フランス |
| 1950 | ウルグアイ | ブラジル | 2-1 | オブドゥリオ・バレラ | コロネル・ボルペ | スウェーデン | ブラジル |
| 1954 | 西ドイツ | ハンガリー | 3-2 | フリッツ・ヴァルター | ゼップ・ヘルベルガー | オーストリア | スイス |
| 1958 | ブラジル | スウェーデン | 5-2 | ベリーニ | ビセンテ・フェオラ | フランス | スウェーデン |
| 1962 | ブラジル | チェコスロバキア | 3-1 | オリベイラ・マルーラ | アイモレ・モレイラ | チリ | チリ |
| 1966 | イングランド | 西ドイツ | 4-2 | ボビー・ムーア | アルフ・ラムジー | ポルトガル | イングランド |
| 1970 | ブラジル | イタリア | 4-1 | カルロス・アルベルト | マリオ・ザガロ | 西ドイツ | メキシコ |
| 1974 | 西ドイツ | オランダ | 2-1 | フランツ・ベッケンバウアー | ヘルムート・シェーン | ポーランド | 西ドイツ |
| 1978 | アルゼンチン | オランダ | 3-1 | ダニエル・パサレラ | セサル・ルイス・メノッティ | ブラジル | アルゼンチン |
| 1982 | イタリア | 西ドイツ | 3-1 | ディノ・ゾフ | エンツォ・ベアルツォット | ポーランド | スペイン |
| 1986 | アルゼンチン | 西ドイツ | 3-2 | ディエゴ・マラドーナ | カルロス・ビラルド | フランス | メキシコ |
| 1990 | 西ドイツ | アルゼンチン | 1-0 | ローター・マテウス | フランツ・ベッケンバウアー | イタリア | イタリア |
| 1994 | ブラジル | イタリア | 3-2 (延長) | ドゥンガ | カルロス・アルベルト・パレイラ | スウェーデン | アメリカ |
| 1998 | フランス | ブラジル | 3-0 | ディディエ・デシャン | エメ・ジャケ | クロアチア | フランス |
| 2002 | ブラジル | ドイツ | 2-0 | カフー | ルイス・フェリペ・スコラーリ | トルコ | 韓国/日本 |
| 2006 | イタリア | フランス | 5-3 (PK戦) | ファビオ・カンナヴァーロ | マルチェロ・リッピ | ドイツ | ドイツ |
最多優勝チーム
| チーム | 優勝回数 |
|---|---|
| ブラジル | 5 |
| イタリア | 4 |
| ドイツ | 3 |
| アルゼンチン | 2 |
| ウルグアイ | 2 |
